コラム 樹海

ニッケイ新聞 2011年7月8日付け

 講演後に直接、保久原ジョルジさんに話を聞いて得るところが多かった。なぜ沖縄系二世が先頭切ってブラジル社会に果敢に入り込んでいったのか——という点は長年の疑問だった。新聞界であれば日系初の翁長英雄や山城ジョゼ、金城セルソなどだ▼その疑問をぶつけると、保久原さんは「金城とも話し合ったが、我々沖縄系は日系社会の中でも少数民族として差別されていた。同じ差別されるならより大きな一般社会でされ、そこで地歩を固めていった方がいいと考えた。私は元々日本語ができなかったから、日本語を覚えることで苦労するより、ポ語で苦労したほうが報われると考えた」と説明してくれ、実に納得のいくものがあった▼政界も同様だ。同じく沖縄系二世で〃ルーラの懐刀〃とまで呼ばれた具志堅ルイス氏が商工会議所から講演に呼ばれても出席しないのに、沖縄県人会から顕彰される時には出席した。あの時から「日系よりも沖縄系としてのアイデンティティが強いのでは」との疑問が湧いていた▼保久原氏も日系アイデンティティを4年前まで持っていなかったと講演した。でも80年に沖縄の従兄弟の家を訪ね8日間滞在した時に関して、「忘れられない日々だった。その家では沖縄方言が話されていて、まるで自分のうちで父と話をしているようだった。とても懐かしい感じがした」と述べていた。彼は幼少時にウチナーグチで人格形成をしたのかもしれない▼日本語はできないが方言はできる沖縄系子孫はかなり多いのでは。であれば〃明治の沖縄〃が当地に残されているかもしれない。純沖縄方言の二世世代に関する研究がもっと行われるべきだ。(深)