追悼寄稿特集=日系初の連邦下議=田村幸重氏逝去に寄せて=サンパウロ日伯援護協会会長 菊地義治

ニッケイ新聞 2011年7月23日付け

 田村幸重氏は高知県出身の田村ヨシノリ、チヨ夫妻のご子息として1915年に生れ、当時、日系人の大学入学者が極めて少ない時代にサンパウロ総合大学法科を卒業、その後ブラジル陸軍上級学校も卒業され、その頃既に将来を嘱望される人物に成長されておりました。
 田村氏は私生活では妻いくよさんとの間に、ご子息アロイジョ氏(医師)を授かりました。
 当時、日系社会も戦前戦後の混乱期で幾多の問題を抱えており、日系人によるブラジル社会での活躍は非常に厳しい状況でありました。
 そのような状況の中で田村氏は日系社会の地位の向上に努力され、同時に自ら、日本人の勤勉、努力、正直を実践され、日系社会の一丸となった支援を受けてサンパウロ市議に当選されました。
 当時の政界には日系人では誰一人、政治家はおらず、日系社会から是非とも市議の選出をという合言葉の下、経済的基盤の弱かった洗濯業者、青果業者、カトリック系の団体等、殆ど全ての日系団体が一致団結、一丸となって田村氏を支援し、この期待に応えて田村氏も手探り、手弁当ながら、必死で選挙をされ、見事、市議に当選されました。
 田村氏の演説の素晴らしさは群を抜いており、一般ブラジル人ではとても足元にも及ばなかったと言われており、州議員、連邦議員になってますます、演説に磨きがかかり、あらゆる公の場で堂々と論陣を張り、いかなる場でも臆することなく、自己主張を貫かれたと聞いております。
 田村氏は1960年代にはクビシェッキ大統領の側近として日伯経済交流の目玉案件であったウジミナス製鉄所、石川島播磨造船所等の大型プロジェクト案件を成功裏に導き、当時の日伯経済交流の先鞭を付けた人であり、今日の日伯経済関係の基礎を築いた功績により、日本政府より勲3等瑞宝章を受章されました。
 一方、幼少年時代のご苦労の経験もあって清廉潔白な政治家であった田村氏は教育問題に非常に熱心であり、文協の会館建設よりも公立学校の建設に情熱を燃やされ、もしもこの夢がかなっていたら、ブラジルの教育制度は大きく変わっていたものと思われます。
 政治家や軍人が経済界に入るきっかけを作り、日系人がブラジルの大地に羽ばたく先鞭を付けられた功績は大きく、多くの後輩の日系人が田村氏の後を追ってブラジルの社会で活躍する今日の日系社会の繁栄ぶりを見てきっと草葉の陰で喜んでおられるものと思います。
 田村氏の自己主張と意思の強さは政治家としての優れた資質ではありましたが、その反面、軍事政権と対立して、晩年の一時期、不遇な時を過ごされた時期がありました。しかし、最後は見事にサンパウロ市議に返り咲き、雄弁を奮い、日系社会、ブラジル社会に多大な功績を残した人として、そして移民の子孫として、ブラジル社会に於ける日本人の魂(やまと魂)を持った最後の武士(サムライ)であったと思います。
 96歳の晩節、ご子息夫妻、お孫さんの3人の家族に見守られ、静かに息を引き取られましたが、敬虔なカトリック信者としても多くの人々に崇高な道標を示されたことに敬意を表するとともに、心よりご冥福をお祈り致します。