水野龍60年忌特別連載=大和民草を赤土(テーラロッシャ)に植えた男=第3回=学び舎で勤王の志士に=吉田東洋暗殺関係者も学友?!

ニッケイ新聞 2011年8月12日付け

 水野龍は江戸時代の1859(安政6)年11月11日、土佐藩主山内氏の家老・深尾氏一族の家臣・亀子(カメス)の次男として土佐国高岡郡佐川(さかわ)町で生まれた。時まさに幕末の四賢侯と謳われた藩主・山内豊信(容堂)の隠居、梅田雲濱の獄死、吉田松陰の処刑など幕末の風雲急を告げる折であった。
 水野家の家系は古く、関が原の役まで溯ることができる。『略伝』6頁によれば、もとは美濃国山縣郡太郎丸の城主・深尾氏の家臣で、関が原の役のあとに山内氏が土佐赴任となった際、深尾氏が主席家老となったのでこれに従ったとある。
 薩長連合を実現した明治維新の立役者、郷土の英雄たる坂本龍馬が暗殺された1867(慶応3)年、水野龍はすでに8歳だった。
 佐川藩は学問を奨励しており、「邑校明教館に入学し、伊藤蘭林、茨木楷山等に就て経史を修め、種田八郎右衛門に槍術を習った」(『略伝』6頁)とある。
 藩校・明教館(めいきょうかん)といえば、愛媛県松山市に所在し、のちに旧制松山中学となり、夏目漱石の小説『坊ちゃん』の舞台となったあの学校を通常は示す。ちなみに明教館時代の卒業生には〃日本騎兵の父〃陸軍軍人・秋山好古(よしふる、1859—1930年)がいる。もしそうなら水野と同い年であり、机を並べたかもしれない。少し後なら好古の弟・秋山真之(1868—1918年)がいる。日露戦争時の作戦担当参謀を務め、日本海海戦の勝利に貢献したあの秋山だ。他にも俳人歌人の正岡子規なども出てくる。
 ただし、よく調べるとこの学校ではない。
 実は佐川町には似た名前の郷校「名教館」(めいこうかん)がある。「藩校」とは藩士とその子弟が通うための学校で、「郷校」は庶民のために設立され、武士と庶民の区別なくどちらも入学できる学校だ。つまり『略伝』執筆者が「名」を「明」と書き間違えた可能性が高い。
 「名教館」は《安永元年(1772年)ときの六代領主、深尾重澄が家塾「名教館」を創設。後に享和二年(1802年)7代繁寛がこれを拡充して郷校とした》と佐川町サイトにある。
 教授名にある伊藤蘭林(1815—1896年)も有名人だ。高知新聞01年11月18日付けにも《伊藤蘭林は幕末から明治期の教育者で、深尾家の私塾「名教館」教授として仕えた。明治になり私塾を開き、自由民権運動で活躍した人物らを育てたほか、植物学者の牧野富太郎や音楽家の外山国彦らを教えた》とあるので水野龍が学んだのは「名教館」が正解だろう。
 伊藤蘭林は慶応4(1868)年1月の松山征伐の時に佐川から鎧をつけて出陣したとの有名な逸話を残している。当時はすでに隠居してもいい53歳という歳であり、土佐藩の気骨を体現した人物だった。松山征伐とは、維新の鳥羽伏見の戦いで松山藩と高松藩両藩が幕府側に加担したため、朝廷が両藩討伐の命令を土佐藩に下したことにより行われた征伐のことだ。
 ちなみに9歳だった水野も松山征伐に出陣しており、隊の先頭で軍鼓を叩いて進軍したが「帰路は歩卒に背負われて睡ったという」(同)とある。この教師にしてこの教え子あり、といえる。
 伊藤は厚い勤王の志を持つ人物であり、植物学の大権威・牧野富太郎、勤王の志士・田中光顕(みつあき)に加え、後に板垣退助の依頼で民撰議院設立建白書の起草に携った自由民権運動の政治家・古沢滋(しげる)のような逸材を育てた。水野からすれば古澤は10歳年長、牧野は同年代であり、彼らを竹馬の友として育ったという。
 中でも田中光顕は後に高知城下に出て尊王攘夷運動に傾倒して武市半平太の道場に通い、土佐勤王党に参加した人物だ。叔父の那須信吾は吉田東洋暗殺の実行犯であり、光顕自身も関与した疑いをもたれている。
 そのような教師や学友に囲まれた水野が勤王思想を育み、自由民権運動に身を投じるようになったのは自然な流れといえる。(つづく、深沢正雪記者、敬称略)

写真=水野龍が学んだ郷校「名教館」(佐川町サイトwww.town.sakawa.kochi.jp/bunka_kanko/rekisi.html