【美空ひばりデビュー65周年記念】チャリチィーショー=日本人の心の歌=ひばりと昭和の名曲特集

ニッケイ新聞 2011年8月16日付け

Show Beneficente Melodias Imortais – Cancoes que tocam na alma japonesa
Comemoracao de 65 anos de estreia de Missora Hibari

 今年もたくさんの感想文をお送り頂き誠に有難うございました。その一部をここで紹介致します。(日本人の心の歌実行委員会)

サンパウロ州サンベルナルド・ド・カンポ市=谷 せい子 様

《とんがり帽子》

 敗戦三年目、満二十一歳の頃、私は厚生省久里浜の引揚援護局で働いていました。
 満州から沢山の方々が引揚げて来ました。その方々にはおにぎりを作って渡してました。私達はその釜底のオコゲを持って帰ったものでした。
 配給は六人家族でコップ一杯がお米の配給でした。海の水がお塩の代わりでした、
 そんな時ラジオから流れる『とんがり帽子』の歌。子供たちの元気な歌声は元気づけられるものがありました。
 この頃は私は長女でしたので、満員汽車の窓から乗ったり降りたりして、田舎の方へお米を買いに行きました。
 とにかく思い出深い歌です。

《高原列車は行く》
《青い山脈》
《月がとっても青いから》

 私はこの頃、神奈川県渉外課の横須賀労務管理事務所というところで働いていました。
 進駐軍横須賀基地で働いている日本人労務者に、給料を払うところです。
 昔の海軍中将や少将もおじいさんでしたが、労務者として働いていました。
 その事務所は女ばかり五十人位。課長、係長の年輩者だけが男性でした。
 昼休み等は、この様な歌を歌ってた事を思い出します。なつかしい歌です。

《王将》

 私は農業移民として来ました。何も経験もないのに移民(棄民)として来るのは今の主人だけが頼りで、本当に冒険でした。命をかけたものでした。
 本当に心にしみる歌です。

《見上げてごらん夜の星を》

 何ときれいな歌でしょう。
 いつも上を見上げたい。

《昭和枯れすすき》

 戦中戦後、移民として生きて来ましたがこれが私達の世代です。
 もう時代に遅れるばかりとなりました。これから先、どんな世の中になるか知れませんが、道を間違える事なく幸せに、みんな仲良く暮される事を祈るばかりです。『昭和枯れすすき』のたった一つの出来る事です。

《川の流れの様に》

 人生は川の流れの様でした。
 少しも休む事なく、流れて行きます。いろいろ変化し乍ら流れて行きます。

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サンパウロ州サンパウロ市=村田 哲 様

 昨年、日本人の心の歌のショーに応募して、協力券(入場券)2枚のコルテジア券を頂き、有難うございました。
 リオに住んでおりますので、サンパウロの各種の催しものにうとく、ついぞ出掛けた事がなかったのですが、昨年八月、初めて観賞、観劇に参りました。
 障害者の娘を連れて、朝九時前に入場し「道さん」の真ん前の最前列の席で、最後まで聞かせていただき、日本人の心の歌を満喫しまして、楽しい一日を過ごしました。有難うございました。
 特に一曲一曲、詳しい歌の心を説明、語って酔わせて下さった司会の「道さん」に、心から賛辞をおくります。「道さん」は素晴らしかったことを思い出します。
 55人歌手全員が素晴らしい歌唱力で、それぞれのもつ世界に引き込まれ、戦前からの時代、その歌の時代を思い出させてくれて、聞き惚れ感動したことを思い出します。
 特に戦前の部では、総ての曲に想い出があり!
 『月の砂漠』は昭和十一年、私が小学校の学芸会で主役をしましたので、ひとしおでした。また『湖畔の宿』では、高峰三枝子に出したファンレターに、彼女のサイン入りの返事をもらった美しい記憶がよみがえりました。
 戦後の曲も全部知っており、歌えるし、それぞれ私のその時代の思い出が呼び起こされて、歌の素晴らしさが心に響きました。『星の流れに』『リンゴ追分』『君の名は』『アカシアの雨』『王将』『いい日旅立ち』を含む55曲全部が素晴らしく、日系社会にはこんなに立派な歌い手がおって、日本の心を引き継いで歌っていく姿は、なんと素晴らしい事でしょう。
 昨年の公演の感動の余韻は、今もずっと続いております。最近のNHKの歌もの、バラエティーもののつまらない事、くだらない事に腹立たしさをもっている私たちブラジルにこそ、日本の歌の心が根付いておることを実感しました。
 「道さん」の司会、ナレーションは最高でした。日本の名司会者玉置さんを彷彿させる司会で、ショーが盛り上がったことを思い出します。
 今年の公演を楽しみにしており、きかせていただきます。司会者、スタッフ、歌手の皆さんのご活躍をお祈りします。

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バイア州イツベラー移住地=宮川 節子 様

 百年に一度しか出ないといわれる歌の女王・美空ひばり…。
 私が横浜へ働きに出た頃、私の下宿先の杉田劇場でうたっており、その内横浜国際劇場で、笠置シズ子の東京ブギウギをうたって、鐘を鳴らして以後、本町の勤め帰り、二つ三つ手前の市電を降りて、彼女の父親の経営する魚屋に寄って、欲しくもない魚を持って帰り、懐かしい戦後のマーケットの中の市場、色の白い威勢の良い父親の姿、やきついています。
 ハマっ子育ちのひばり。唄だけではなく、芝居も、何をやらしてもうまい。
 私が再び出稼ぎに行ってた昭和 年に亡くなり、日本で散々涙を流し、若い頃を想い出し、やっぱり懐かしいです。
 下宿のおばさんの一人娘がよくうたってた『私は街の子』外米のボソボソした御飯を炊いて、弁当持って、毎日勤めた頃の懐かしい懐かしい思い出です。

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サンパウロ州サンパウロ市=大塚 弥生 様

 私の心の歌『いつでも夢を』をリクエストします。
 昭和三十八年、高校の卒業式を目前にした一月に家族で移住しました。
 前の年大ヒットした『いつでも夢を』は送別会をしてくれた四十三名のクラスメイトが寄せ書きとして、全員が託してくれました。
 移民生活四十七年間、いろんな事がありましたが、この言葉を“自身の応援歌”そして“私の心の歌”として、今でも口ずさんでいます。

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サンパウロ州サンパウロ市=密田 絹子 様

 「悲しき口笛」「リンゴ追分」「津軽のふるさと」「あの丘越えて」は戦後の暗い世の中が美空ひばりの明るい歌声でパッと世の中が明るくなったような感じで素晴らしい曲だと思います。
 『川の流れのように』も私は大好きな曲です。でも美空ひばりの最後の曲なので少し淋しく思います。でも美空ひばりが亡くなって二十三年になりますが、未だに歌い続けられている、素晴らしい曲だと思います。
 『上を向いて歩こう』は坂本九ちゃんの明るい人柄を〈日本人の心の歌〉では、九ちゃんそっくりな人が歌って、とっても懐かしく思いました。
 『君の名は』佐田啓二と岸恵子の映画を観て、そうして北海道の知床旅情に行った所も、とっても懐かしく感じて大好きです。
 『青い山脈』と『あこがれの郵便馬車』は、私達ビラカロン婦人部で、八月二十八日の演芸会に合唱で歌うようにしてるので聴いてみたいと思います。
 〈日本人の心の歌〉では、歌手の皆さん歌に合わせた衣装で、其れに司会の道様の詳しい説明があって、歌が生きて、聴く人の心の底まで伝わって感動します。
 特に『悲しき口笛』の長い黒い帽子をかぶって五十年前、映画で観た可愛い美空ひばりそっくりなのが〈日本人の心の歌〉で観る事が出来てとっても懐かしくて、感動します。今年も楽しみに待ってます。
 此のような素晴らしい〈日本人の心の歌〉を観る事が出来るのは、主催のニッケイ新聞社の皆様と、司会の道様家族一同のお陰と感謝致します。
 此れからも続けて下さる事を心からお祈り致します。

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サンパウロ州サンパウロ市=平沢 せつこ 様

 ブラジルへ渡って知らない間に 年になりました。
 大きなパイネイラの花を見ては、色だけは桜みたいやなぁと思ったものです。
 渡伯して間もない頃、食べるに困る日々を送る中、口ずさむはひばりの歌でした。そんな頃でも、父は小遣いを下さって、町へひばりのシネマを見に行ってこいと言って下さいました。
 知らない土地で死ぬのは嫌だと、移住を拒んだ。おばあちゃんに会いたい、日本の皆が恋しいばかりで毎日エンシャーダをひっぱり、養蚕をしていました。桑畑で泣いていました。
 早く亡くなった父も、それはファンでした。色々な想い出をこめて、まだ元気な母と伯母をさそって、三人で聞きたいと思っています。

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パラナ州ノーヴァ・ファッチマ市=瀬良 義雄 様

 私方田舎にて、老人はあにも楽しみはありませんので、新聞を見せて下さいますのが一番の楽しみです。
 さて、今年も日本人の心の歌、ひばり 周年記念チャリティーショーを開催されるとの由、誠に喜ばしい事にて、盛大に催される事、御祈り申し上げます。