水野龍60年忌特別連載=大和民草を赤土(テーラロッシャ)に植えた男=第5回=大隈重信侯の爆殺謀る=近代史変える危険人物に?!

ニッケイ新聞 2011年8月16日付け

 実は水野は慶應義塾に入る前、のちに世話になる後藤象二郎らとは対立する立場、1882年3月結成の立憲帝政党だ。与党支持側に組し、当初はこれを政界進出の踏み台にしようとしていたようだ。『略伝』には「水野は政治に熱中し、福地源一郎、水野虎之助、丸山作樂等と帝政党を創ったり」(7頁)とある。
 後藤象二郎や板垣退助らの自由党、大隈重信を中心とする立憲改進党に対抗する形で、高級官吏や僧侶ら宗教家や保守層などの体制擁護派の支持を狙って創立されたのがこの政党だ。これは勃興する自由民権運動に対して、政府支持政党として結党された。
 東京日日新聞の福地源一郎社長、明治日報の丸山作楽、東洋新聞の水野寅次郎らと共同して立憲帝政党に参画したとはいえ、水野はまだ23歳の青二才だ。40代の錚々たる新聞社主らの前では使いっ走りのような存在だったに違いない。上京して4年目、自分の適性を模索している最中だった。19歳で禁獄されたこともあって、過激な政府批判の立場ではなく保守層における立場を築こうとしていたようだ。
 翌4月には大阪で機関紙・大東日報を創刊した。しかし組織が弱体で、政府がまったく関与しない超然主義に徹したため、与党政党としての存在意義を失い、83年9月には解党してしまった。
 この後に水野は後藤象二郎らと急速に接近し、25歳で岡山県庁の仕事や妻を紹介してもらい、慶応義塾にも通って1888年に卒業した。このあたりから方向性が定まるようになる。
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 『略伝』中、最も驚くべき逸話は、なんといっても立憲改進党の党首、大隈重信の爆殺未遂事件のくだりだ。「同志と共に大隈重信を狙って爆弾を作って青山墓地で試験したが目的は達しなかった」(7頁)とごく簡潔にあるだけだが、よく読むと微妙な表現だ。「目的は達しなかった」とは、「実行したが目的を達しなかった」のか「目的であるテロ行為まではやらなかった」との、どちらにも読める。
 おそらく事件の50年以上も後、1940(昭和15)年6月、パラナ州ポンタ・グロッサに輪湖俊午郎が訪ねた時、水野がした打ち明け話が『物故先駆者列伝』(日本移民五十年祭委員会編、58年、61頁)に以下詳述されている。
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 水野氏は、明治の中葉天下の志士を以て任じ、東奔西走していたが、大隈重信氏を危険人物と誤認し同志と暗殺を計った。その方法は、火薬を小箱につめて、小包郵便で送り届け、これを大隈氏が開くと爆発すると云う仕掛けであった。水野氏の苦笑して言うのに、「所がね、智識のないものは仕方のないもので、君の国信州え行って、ひそかに之を試験した時は上成績だったのだが、新しく作らせた箱の板が、よく乾燥していなかった為め、火薬が湿気をくい大隈伯が開いては見たものの、なんのことはなく、不思議なものよとこれを警視庁に調べさせた所、危険な爆薬だとわかり大騒ぎとなった」
 後年、水野氏は、前非を悔いて、幾度びか大隈侯に詫びようとしたが、会うたびに滔々と吹き捲くられて、つい云いそびれ引きさがるのを常とした。「今は大隈侯も死んでしまい、もう詫びようもない。こればかりは私の心に残る」と述懐していた。
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 つまり、テロは実行されたが失敗に終わった。だから結果的に「目的は達しなかった」わけだ。今風に言えばりっぱな「爆弾テロ実行犯」だ。しかものちに外務大臣、総理となる大隈重信の爆殺テロを謀るというのは、若さゆえだとしても過激すぎる行動だろう。
 この事件が何年に起きたのか定かではない。しかし、過激な反政府テロ事件が1881(明治14)年の秋田事件以来、全国各地で起き「激化事件」と呼ばれており、その流れの中の事件であった可能性がある。ならば水野は二十歳過ぎだ。
 もしこのテロが成功していたら、日本の近代史を変えた危険人物として後世にその名が伝わっていた。さらに水野は刑に処され、ブラジル移民は始まらなかっただろう。(つづく、深沢正雪記者、敬称略)

写真=後に外務大臣、首相となる明治の元勲、大隈重信(写真はウィキペディアより)