コラム 樹海

ニッケイ新聞 2011年8月16日付け

 あの日は暑かった。昭和20年4月、国民学校に入学し、防空頭巾で2列行進をしての通学だった。正門で敬礼。奉安殿に最敬礼。寂れた山奥ながら村の広場では、竹槍の訓練もあったし、戦場に散華した兵士らの遺骨を納めた白布の木箱が届き、多くの人たちが哀しげにも凛々しく出迎えた情景も瞼の底に浮かぶ。そしてー8月15日の正午である▼まだ幼かったので「玉音放送」があるのは知らなかった。それでも、茶の間に部落の人たちが次々に2〜30人も集まり深刻そうな面持ちでいるのが、どうしたのだろうと思ったりもした。そしてー昭和天皇の重々しい声でのラジオ放送が始り「耐え難きを忍び」と声涙ともにくだる頃になると隣家の小母ちゃんや小父さんさらが嗚咽し、ひれ伏して頬を涙で濡らした▼このポツダム宣言の受諾を告げる詔勅を録音した原盤を放送局まで運ぶのに命を賭けた鈴木貫太郎内閣の迫水久常書記官長の辛酸は、ブラシルに渡ってから知ったのだが、あの当時はまだ軍の強硬派が本土決戦であり、政治状況は眞に厳しかった。こうした烈士の活躍と天皇初の「玉音放送」に涙した人々が、昭和20年8月15日という真夏の「事実」だったと信じたい▼皇居前広場で屠腹し果てた人もいたし、あの敗戦を悔やみ惜しんだ向きもいっぱいいた。中国やビルマで戦死した250万人近くの兵士や米軍の空襲で泉下へ旅立った方々が、今日の日本繁栄の礎になったのをきちんと記憶に留め後世に伝えたい。あの灰燼の日から66年。きのうは終戦記念日であった。(遯)