水野龍60年忌特別連載=大和民草を赤土(テーラロッシャ)に植えた男=第6回=一生を貫く過激な性向=過激演説で再び投獄に

ニッケイ新聞 2011年8月18日付け

 大隈重信襲撃事件といえば、日本史上有名なのは1889年に起きた右翼組織・玄洋社の一員だった来島恒喜(くるしま・つねき)による爆弾テロだ。
 外国人判事を導入するという条約案に反対した来島は、大隈外務大臣(当時)の乗った馬車に爆弾を投げつけ、右足切断の大怪我を負わせ、31歳だった来島はその場で短刀により自害した。この事件により条約案は破棄され、大隈は辞職に追い込まれた。
 つまり、実際に爆弾テロによって歴史が変わった。ウィキペデイアによれば『大隈伯昔譚』には、大隈は後に来島に関して、こう語ったという。
 「爆裂弾を放りつけた者を憎い奴とは少しも思っていない。いやしくも外務大臣である我が輩に爆裂弾を食わせて世論を覆そうとした勇気は、蛮勇であろうと何であろうと感心する。若い者はこせこせせず、天下を丸のみにするほどの元気がなければだめだ」。
 では、同様のテロを謀った水野龍に対する大隈の評価はどうだったのか。水野が後に輪湖俊午郎に語ったところでは、「後年、水野氏は、前非を悔いて、幾度びか大隈侯に詫びようとしたが、会うたびに滔々と吹き捲くられて、つい云いそびれ引きさがるのを常とした」(『先駆者列伝』61頁)とある。これを分かりやすく言いかえれば「最後まで言いそびれた」、つまり自分が犯人であったことを大隈に告白できなかったのではないか。
 水野のような失敗したテロの告白すら許されない雰囲気が会話の中に漂っていたのなら、来島を「憎い奴とは少しも思っていない」という言葉は表向きの奇麗事であり、本当の腹の内は別であったとも考えられる。
 水野はこの事件を、晩年まで公言しなかったのではないか。そのような事実が事前に広く知られていれば、移民事業に関して外務省などの官庁に働きかけをする際、相手にされなかった可能性があるからだ。
 輪湖に回顧譚として語っているのは、すでに81歳の時点だ。気の置けない仲の輪湖だったからこそ、しゃべったのかもしれない。そして『物故先駆者列伝』が刊行されたのは死後7年目、輪湖としても水野が生きている間には公にできなかった類の話だろう。
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 さらに1898(明治31)年、39歳の時にも次のような事件を起こした。「水野の政治思想は先覚者板垣退助、中江篤介(編註=とくすけ、中江兆民の本名)などが唱えた自由民権の拡張にあり、政策としては富国強兵、殖産興業を主張し、明治三十一年奈良県から代議士に立候補したが、その演説過激であった為め四十日間投獄され、以後政界進出亦不能となった」(7頁)。2度目の投獄で政界進出を諦め、実業界を目指すことになる。
 20代どころか30代になっても水野は過激であった。おそらくこの過激さこそが彼の生涯を貫く特徴であった。
 それにしても、いったい水野はどんな過激な演説をしたのか。息子の龍三郎によれば、父が口癖のように繰り返したのは次のような言葉だった。
 「世界中の人が同じように働いて生きていくことが本当じゃないか。日本人のため、お国のためだからといって他の国を戦争で攻め取るのは許せない。そんなことをしたら、弱い国はとんでもないことになる。日本がそんな道を進むのは間違いだ」と当時の満州政策を批判していた。
 当時は、1894(明治27)年には日清戦争、1895(明治28)年に台湾併合、1904(明治37)年には日露戦争、1910(明治43)年には朝鮮併合という、矢継ぎ早に大陸進出が図られていた時代だった。それにまっこうから反対する思想の持ち主だった。つまり、アジアに植民地を広げる発想を批判し、武力によらない方法で日本人が海外発展できる術を探していた。
 そこには「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」の福沢精神の片鱗が伺える。これが水野の中で「天は国の上に国を作らず」となり、世界市民が平和な共存を果たす「共存共栄」思想の根幹となったのではないだろうか。(つづく、深沢正雪記者、敬称略)