イグアス移住地50周年=パラグアイの若い息吹=第1回=ブラジルから変った矛先=「ここは大森林だった」

ニッケイ新聞 2011年8月31日付け

 創立50周年を迎えたばかりの若いイグアス移住地は、パラグアイへの殖民事業の最後発にして、最大規模のものだ。いまも活気ある農業組合があり、移住者の大半は農業で生計を立てている。そして20歳前後が中心の二世層はまるで日本の日本人のような言葉を使う。8万7千ヘクタールを誇る移住地はそのままイグアス市という行政区域になっているが、選挙で選ばれる市長よりも日本人会の会長の方が大きな権限を持っているような雰囲気すら漂っている。イグアス市の人口8700人のうち、日本移民とその子孫は200家族(約700人)で人口に占める比率は10%に満たないが、経済力は9割に達している(日本人会役員談)からだ。かつてブラジルにも同様に活気のある移住地はあったが、百周年を経た現在はだいぶ事情が違ってきている。ブラジルと比較しつつ、同地の今後を探ってみた。

 パ国への日本人移住は、ブラジルの動きと密接に関わっている。唯一の戦前移住地ラ・コルメナが創立されたのは1936年、つまりブラジルで事実上日本移民を制限するために制定された二分制限法(1934年)が施行された2年後だ。
 1920年代後半から30年代前半が当地への日本移民全盛期であり、ノロエステ線、パウリスタ延長線、ソロカバナ線など各地に移住地、植民地が建設された。ところがバルガス政権が二分制限法を打ち出したことで、日本の拓務省とブラジル拓殖組合はブラジル移民を諦め、パラグアイへ送り込む調査を始めた。
 当時パラグアイは、ボリビアとのチャコ戦争(1932—38年)で勝ちこそしたが国内経済は疲弊しきっていた。それを立て直すために労働力を欲しており、日本政府の意向と合致した。そのため、日パ移住協定が交わされ、ブラ拓の宮坂国人がラ・コルメナに乗り込んで日本移民発祥の地建設が始まった。
 50周年式典会場には、元ブラジル移民の坂本邦雄さん(82、神奈川県横浜市)=アスンシオン在住=が感慨深そうな表情を浮かべて座っていた。パラグアイ移民開始75周年である今年は、坂本さんにとっては移民78年目でもある。4歳の時、最初に入植したのはブラジルのモジアナ線カニンデ駅のコーヒー耕地だった。一年もしないうちに実父と妹を病気で失い、母は酒井好太郎と再婚した。この継父の海外殖民学校の校友が、パラグアイ移民の草分けの石井道輝だった。ブラジルの二分制限法を受けて、ブラ拓の分身たる海外移住組合連合会の中にパラグアイ拓務部(パラ拓)が発足した。石井がその準備に参加していた関係で、酒井に「パラグアイに来ないか」と声がかかった。
 両親に連れられて坂本さんがアスンシオンに到着したのは1935年10月、先陣としてラ・コルメナに乗り込んだのは翌36年5月15日、この日が「パ国日本移民の日」となった。坂本さんは戦後、日本海外移住振興会社に入社し、イグアス移住地建設前に下準備にもきた。
 坂本さんは式典会場を見回しながら、「まるで夢みたいですね。ここは見渡す限りの大森林だったんですよ」とつぶやいた。
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 ブラジルの二分制限法は、南米への日本移民の運命を大きく変えた。日本政府から見た移住者送り出し先の主流は、このように日本人を歓迎するパラグアイ、ボリビアなどに切り替わっていたわけだ。
 中進国と自らを位置づけた誇りたかきブラジルと違って、他の南米諸国は自他共に認める発展途上国であり、JICAの支援を積極的に受け入れ、日本移民を優遇したことも大きい。ブラジルの日本移民史と近隣諸国のそれは、実に密接につながっている。(つづく、深沢正雪記者)

写真=パ国開拓の草分け、元ブラジル移民の坂本邦雄さん