イグアス移住地50周年=パラグアイの若い息吹=第6回=「子や孫の代まで土守る」=原始林を再現する栽培法

ニッケイ新聞 2011年9月7日付け

 「不耕起栽培を以前に試験した人たちは、50%の減収、あるいは雑草による収穫不能な状態になった人もいるし、今はみんな辞めているので小面積で試験するように」との忠告をピラポ移住地の人たちからも受けたという。
 それでも深見明伸さんの決心は変らなかった。「多少収量が減っても、土壌保全を優先すべき」と考え、83年に180ヘクタールのうち160を不耕起栽培に切り替え、賭けに打って出た。
 減収を覚悟して、自らの耕地の大半を不耕起栽培に変えたが、結果的に収量は減らなかった。深見さんは「畑(土地)が新しかったからかもしれない」と分析する。
 ブラジルでは二十年、三十年と使った後の土地に不耕起栽培を試したことから一時的に大きく収量が減る心配があったが、イグアス移住地は開拓地であり、土地が肥沃で新しかったことが幸いしたようだ。
 しかも、それまで砂質土壌は5年もすれば表土が流れテーラ・ロッシャの半分の収量しかなくなり、営農不向きと言われていたが、この栽培方法だと同等の収量が挙げられることも分かった。
 「でも当時はいい除草剤がなく、人力除草が主体。雑草処理にはずいぶん苦労した」とふり返る。そんな時に、松永さんは除草剤の使い方を工夫していた。深見さんは「効率的な除草剤の使用、うね幅を縮めて、栽植密度を高くし、土壌を作物や殻が被って太陽光線を防ぐことで、雑草も生えにくくなることも分かってきた」という。
 つまり、土地に合った除草剤の使用法を見出したことで手間数をおさえて高収量を確保し、不耕起栽培によって土地の永続利用を可能にしたことで基幹作物としての大豆生産はようやく軌道に乗った。
 1987年頃から組合員の多くが不耕起栽培を始めるようになり、作付面積も1987年には2493ヘクタールだったのが、1995年には1万700へと飛躍的に増えた。組合員は60人弱と人数こそ小粒だが、組合は前述のサイロ、製粉所まで所有する。
 80年代末には「土地なし農民」の不法占拠にも悩まされた。まったく道なき道を行くが如き移住地運営であった。
 そのような絶えざる努力に加え、この不耕起栽培を他の日系移住地だけでなく、惜しげもなくパラグアイ全体に普及したことが、パ国をして世界第4位の大豆輸出国にならしめた原動力となったことは、国民全体が良く知るところだ。
 50周年式典の時、渡部和男在パ大使はあいさつの中で、ルーゴ大統領が演説の中で何度も「記録的な数値である経済成長率15・3%の一部は、間違いなく日本移民の努力おかげだ」と繰り返したことに触れた。
 深見さんは「不耕起栽培を導入しても1回の失敗で、不耕起を否定し、また土地を起こす人がいる。失敗したのは不耕起のせいでなく、己の技術が未熟さのためであり、栽培方法のせいではない」と警鐘を鳴らす。「不耕起栽培を成功させるには『農業を末代まで続けていく』という固い意志、そして『自分の代だけでなく、子の代、孫の代まで自分の土地は自分で守っていく』という強い信念を持つことが大切です」との心構えを説いた。
 「どこの国でも原生林が一番肥沃だといわれています。原生林は太陽光線、雨滴、風が直接土壌には当たりません。そのような土地が一番肥沃だということは、誰にでもわかるはずです。不耕起栽培は、この原始林の状態に近い栽培方法なのです」。トメアスーの森林農法もそうだが、自然から学んだ農法だからこそ、永続的な営農が可能になった。
 現在、農協前にはパラグアイ不耕起栽培発祥の地との記念碑が建てられ顕彰されている。(つづく、深沢正雪記者)

天空目指す伊具阿須神社

 イグアス移住地には神社まである。首都アスンシオンのニッケイジャーナル社主の高倉ミチオさん(70、大分)が計画している。09年7月、上田良光宮司(東北学院大学教授?磐椅神社宮司)が訪パし、イグアスの滝の水神様の降臨儀式を執り行った。「大滝にちなんで龍神様が祭られています」という。
 高倉さんは7〜8年前に日本で「イグアス移住地に天空神社を作れ」という〃神の啓示〃を受けた。天空神社とは、出雲大社が古代においては100メートル近い高さを誇る高層社殿だったことを示している。天空に向かって階段が競りあがっていくような社を作る計画だという。「木で作るかレンガでやるかは検討中」とのこと。
 04年に日本の参議院選に高倉さんが出馬した際、政見放送を見た高校時代のラクビー部の後輩・熊本武一さん(たけいち、千葉在住)から40年ぶりに連絡を受けた。この神社の構想を話すと、ポンと5万ドルも寄付してくれたといい、「これも神の思し召し」という。高倉さんは「パラグアイの地から世界の平和を祈りたい」と静かに手を合わせた。