南米産業開発青年隊55周年=夢の新天地を求めて=(下)=「ポルトガルの岡井」=指圧師の元祖として活躍

指圧師の岡井さん

指圧師の岡井さん

 通称「ポルトガルの岡井」、10期生岡井吉重さん(72、青森)は、指圧師のパイオニアとしてポルトガルで成功した青年隊の変り種だ。
 ギターに没頭した高校時代、ラジオで聞いたフラメンコに感動を覚え、スペイン行きの夢を抱いた。しかし、留学、研究員など資格のある者だけに渡航が制限されていた60年代。海外雄飛の夢を叶えてくれたのが青年隊だった。
 訓練所は予算確保の困難を理由に64年3月末をもって閉鎖したが、農拓協は存続して10期生16人を受け入れた。グループで派遣されたのはこれが最後となり、その後は11期生として断続的に21人が来伯した。
 10期生らはコチアが運営する製粉所に送られたが、「4年契約が条件だった。そんな制約は嫌だと断り、ハッカで当てたすごい先輩がいると聞いて同期の仲間と彼を訪ねた」と岡井さんは語る。
 吉村美津男さんが率いるグループに快く受け入れられ、原始林を開きハッカ栽培に従事した。しかし神代組のごとく斧一つで木を切り倒し、夜は窓もない小屋でノミだらけの寝袋で寝る日々に、「百姓がしたかったわけじゃない。何で俺はここにいるんだ」と自問自答する毎日だった。
 そんな中、近所の高齢者に休日を利用し指圧を施すのが楽しみの一つだった。「ブラジルに行けば病院もない所で働くことになる。道具も使わず健康を保てる技術を身に付けよう」と渡航直前に1年間学校に通い、指圧を学んでいた。
 1年ほど経った頃、岡井さんのジレンマと指圧の技術を眼にした吉村さんが、「町に行って指圧をしたらどうだ」と背中を押した。
 迷いはなかった。サンパウロ市にペンソンを借り、僅かな時間を利用して語学の勉強に励んだ。「日本からお守りとして持ってきた100ドルを、身を切る思いで払って学校に通った」。
 初めての客となった語学教師の親族に、腕を見込んでを客を紹介するといわれ、飛びついた。「明日をどうやって食いつなぐかで精一杯。選んでいられない。指圧ならやっていけそうだ」。
 セラピー店などで経験を積み、国家試験に合格、憧れの地だったリオで開業した。この時出会ったポルトガル人の客がその後の運命を変える。「重症の坐骨神経痛を患う患者だった。1日朝晩2回、祝日も休まず彼の家に半年通い続けて治させた」。
 「治療費はいくらだ」と聞かれ、百万円相当の治療だったが思わず「一銭もいりません」と答えた。「裕福な客だったけど駆け引きは苦手だった」。驚いた客は「お礼にポルトガルに連れて行ってやる」と答えた。こうして長年の夢だったヨーロッパ行きの切符を手にした。
 ポルトガルではパイオニアとして指圧を普及、〃SIATSU〃という言葉がそのまま使われるほどになった。
 「青年隊ではいつも先輩たちが無償で面倒を見てくれた。してもらったことは、利益を顧みずにして返すこと」と、在伯時から多くの弟子を住み込みで雇い育ててきた。「したことはいつか自分に返ってくる。『損して得する』精神ですよ」と微笑む。
 青年隊の記念行事には毎年はるばるポルトガルから訪れ参加する。欧州と南米、そして日本。助け合い、生き抜いた青年隊の軌跡はこの地、ブラジルに集約されている。(終わり、児島阿佐美記者)