【祝 福博村入植80周年】準自然農業を経営=大型化図る渡邊勇さん

ニッケイ新聞 2011年10月22日付け

 農業離れの時代に、踏みとどまって健全な農業経営を継続し利益を上げている農家が、福博村にはいる。コチア青年第1次5回生の渡邊勇さん(74歳)だ。
 渡邊さんは1937年3月31日、宮城県七ヶ宿町(しちがしゅくちょう)の出身で、1956年『チサダネ号』で渡伯した。最初、サンジョゼ・ドス・カンポス市のエウジェーニオ・メーロに3年契約で入った。パトロン(引受人)は日本人だったが、地主ではなく借地農家だった。渡邊さんは入植早々「借地では土地に愛情がわかない」と引受人を批判しながらも、歩合作でトマトを栽培した。「家族的待遇」とは名ばかりで、内実は「日本人奴隷」でトラクター運転手の給料が120コントの時、渡邊さんたちの給料は22コントだった。その上、洗濯代を取られ、食事はシュシューの水炊きで「腹減って寝れん」と毎日、空腹を訴えた。コチア青年の仲間の1人が耐え切れずに自殺した時、日本人のパトロンに「認識不足だ」と言われ、コチア青年10人は悔し涙を流して泣いた。
 1958年、福博村に来て、長谷川さんと2人でトマトを作ったが、雹が降って全滅した。サヤエンドウ、キューリを作りながら、隣の奥村一夫さんがニンジンを栽培しているのを真似て作った。ある日、ニンジンの葉が白くなったので、気孔から菌が入ったと考えてカンタレーラの中央市場で農薬を買って散布した。隣でニンジン畑に日に何度も水をかけているので、地温計で温度を測り、日に4回水をかけると地温が5℃下がることが分かった。寒冷紗をかけたりして地温を下げ、ニンジンを作った。有名なカンポス・ド・ジョルダンのニンジン収穫期は3月から7月ごろまでで、福博村では11月から翌年の2月までの端境期(はざかいき)に収穫でき、大きな利益が出る。ニンジン1箱でカテテ米60kgが買えたこともあった。
 ニンジンは美味なナンテス系のものを作っていたが、1978年ごろSUNAB(国家物資供給・物価管理局)により価格統制が行われると、良品質であってもコストの高い商品は売れなくなった。その結果、少々味が落ちても病気と暑さに強くてコストがかからない安い黒田種ニンジンが売れるようになり、現在もこの種を栽培している。
 1960年代、「養鶏をやらない奴は人間じゃない」と言われ、福博村で養鶏が最盛期を迎えても、渡邊さんは養鶏に手を出さなかった。高校時代に「養鶏は自分で餌を作って、自給自足でやらなければならない」と聞いていたからだ。事実、餌をはじめとするコストの高騰によって、福博村の養鶏ブームは終わった。福博村で唯一生き残った井野養鶏場は、大資本を投入し拡大均衡経営で成り立っている。
 渡邊さんの長男利夫さん(42歳)の妻は、天候に左右されない集約的な「水耕栽培」を始めた。渡邊さんはブラジルの天候、地力を生かした「露地栽培」にこだわり続けている。歩合作で4家族を入れ、農機具、電気代は渡邊さんが持っているのは、コチア青年として入植した時の苦労が背景にある。
 渡邊さんの生家は神主で、兼業で農業にも従事していた。渡伯前に1カ月の農業講習会に参加し、鶏を飼い、ブタを飼い、その糞を肥料にリンゴを栽培する「立体農業」を知った。自然農法に、大量生産に必要な最低限の農薬、化学肥料を使用する『準自然農法』とも言うべき農業を自分なりに工夫を重ねて行っている。例えば害虫を追い出すためににおいの強いレモングラスを植えたり、ハッカを食べさせたウサギの糞を置くとハエが来なくなる。
 渡邊さんは1970年、福博村からただ一人大阪万博に行っており、進取の気性に富んだところがある。次男のカツオさんはUNESP大学工科を卒業してブラジル・トヨタ自動車の販売部に勤めている。