高拓生80周年=(3)=それぞれが誇りを胸に=多くは親元離れ、学校に=二世ら、親の教育に感謝

ニッケイ新聞 2011年11月17日付け

 祝賀会には4回生の井原只郎さんの妻清子さん(95、愛知)=マナウス市=も、大勢の親族と共に祝賀会にも元気な姿を見せた。只郎さんは10年前に逝去したが、子ども12人、孫20人、ひ孫21人、玄孫2人に恵まれる。
 井原夫妻は、当時はパリンチンス市近くのバヘイリーニャ市でジュート栽培を営んだ。
 「私達の住んでいたところは戦争中も比較的平和で、つかまった人がいたのも知らなかった。でも日本語は禁止されていたから、子どもにも『話すな』と言い聞かせた」と振り返る。
 「雇っていたブラジル人が良く働いてくれたから、ジュートが良く採れ、仕事には不自由しなかった」と穏やかな表情を見せた。
 娘のテイさん(67、二世)=マナウス市=は清子さんの傍に寄り添いながら「私は戦時中に生まれ、日本語なんて話せなかった。親も現地の言葉が大切とポ語の教育を優先したから、高拓生の子孫で日本語を話せる人は少ない」と話す。
 10歳頃、パリンチンス市に移り、同市の日本人会の寮に住みながら町の学校に通った。12人の子どもは同様に実家を離れ、両親だけがアマゾンに残ってジュート栽培をした。
 「家族と過ごした思い出は殆どない。でもブラジル社会に溶け込んで生活でき、とても感謝している。高拓生の子孫として、これからも行事が続く限り参加したい」と絆をあらわにした。
 5回生の内藤菊次郎さんの甥・丸山芳二さん(71、新潟)は、妻ツネさん(同、福島)とマナウスから約300キロ離れたウルクリトゥーバ郡から駆けつけた。
 ジュート栽培が盛んだった60年代に呼び寄せで来伯した。「大変な重労働でこき使われたよ」と冗談めかしながら振り返る。
 「田舎でいい学校もなかったが、叔父には『教育には力をぬくな』といつも言われた。おかげで農家だったが、子どもは大学院までいった」と誇らしく笑った。
 「高拓生の子供であることを誇りに思っている」と真剣な表情を見せるのは、イベントの世話役を務めた丸岡アデルシーさん(66、二世)=マナウス市=。
 「ジュート栽培による貢献は忘れ去られていたも同然。ブラジルで生まれた子どもがいたにも関わらず迫害され、戦争時代の話を聞くたび不当に感じていた。わずか3人だが、高拓生が生きている間に謝罪を実現できてよかった」と喜びをかみ締めた。
 35年前から高拓生と付き合いがある佃拓也さん(71、大阪)=マナウス市=は「自分は苦労してもお金をかけて子どもに教育を受けさせていたことが印象的だった。彼らの苦労を知っているから、今回は本当に感動した」と笑顔を見せた。
 盛大に行われた祝賀会はケーキカットを最後に幕を閉じた。訪れた親族には、今回出版された『A SAGA dos KOUTAKU no AMAZONAS』をジュート製のリボンでラッピングしたものが配布され、それぞれ別れを惜しみながら会場を後にした。(児島阿佐美記者、つづく)

写真=伊原清子さんとその親族