第14回=母県が失った何か南米に=〝明治の沖縄〟と肝心

ニッケイ新聞 2011年12月15日付け

 父が臣道聯盟員だった保久原淳次さん、父が勝ち組だった玉木さんは、親を通して〃明治の沖縄〃を引き継いでいる。二人に共通するのは、国や郷土を愛する想いが親に強かったことだ。沖縄ブラジルの絆の土台には、このような切ない志の積み重ねがあった。
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 那覇市内の沖縄青年会館で10月15日晩、沖縄ブラジル協会(西原篤一会長)と沖縄産業開発青年協会(伊集盛元理事長いしゅう・せいげん)が共催したブラジル県人会役員歓迎懇親会で様々な関係者の声を聞いた。彼らこそ戦後の〃団塊世代〃、沖縄版第3弾を代表する集団といえる。
 訪伯3回を数える同青年協会の伊集理事長は「南米に行った時、沖縄では使われなくなったウチナーグチが今も使われていることに驚いた。沖縄が失ってしまったものがブラジルには残っている」との印象を強調した。子孫に色濃く残る〃明治の沖縄〃が母県関係者を感動させている。
 沖縄産業開発青年協会の創立は1953年の復帰前であり、本土の南米産業開発青年隊とは別組織だ。そこでポ語教師をしていた玉木良子さんは「あの頃は大型機械の免許とったり技術をつけても仕事がなかった」と世情をふり返る。
 琉球政府の政策で次男三男がブラジルを中心に亜国、ボリビアに送り込まれた。57年2月に第1次隊約30人が出発し、62年ごろまでに15回に分かれて約300人余りが海を越えた。本土の南米産業開発青年隊は全部あわせても326人であり、沖縄だけでそれに匹敵する若者を送り込んだことになる。
 この第1次隊の東恩納盛正さん(ひがしおんな・もりまさ、74、南城市なんじょうし)=サントス在住=は、「僕は南洋生まれだから最初から移民を目指していた。外国の方がいい、とにかく沖縄から出たいと思っていた。19歳でブラジルに来て小学校からやり直した」という苦労人だ。
 県人会サントス支部長を務め、孫2人をつれて2回目の大会参加を果たした。「おじちゃんの生まれたとこを見たいと孫がいうんで連れてきました。こっちきたら『自分のうちに帰ってきたみたいだ』と孫が言うんで、先祖が何か伝えてくれたんじゃないかと思います」と微笑んだ。
 西原会長にブラジルの魅力を尋ねると「スケールの大きさにしびれた。それにウチナーの肝心(チムグルル)がある。訪問する度にとても盛大に歓迎してもらった。若い人で方言を使える人がいたりする。今の沖縄には欠けているものがブラジルにはある」という。
 沖縄ブラジル協会は52年5月に創立し、西原さんは会長を10年間務めている。初訪伯は93年の那覇サンビセンチ姉妹都市提携15周年の時だった。以来18回の訪伯を数えるから、毎年来ている勘定になる。
 ブラジルからの研修生はすでに41市町村が受け入れているが、「さらに態勢の充実を図る」という。現会員は50人ほどで、当地に親戚のいる人、引上げ者が多いという。
 会場となった沖縄青年会館の城間良和(しろま、よしかず)理事長は、「ブラジルはどんどん成長し、今に日本を追い越す勢いだ。沖縄にある南西石油はペトロブラスが買収した。これからはブラジルからいろいろと学ばなければいけない。次のウチナーンチュ大会ではもっと盛大な歓迎会をしたい」と語った。
 このような母県側の組織がどの国の海外県人会にも必ずある。この受けいれ組織と、戦後の〃団塊世代〃は車の両輪の関係だ。戦後の団塊世代が多いことが各国の県人会活動を活発化させ、母県側の受け入れ団体との連絡を密にさせている。両側ががっぷりと四つ組んだ体制が、世界に散らばるウチナーンチュの強固な国際交流の足場を形成している。(つづく、深沢正雪記者)

写真=歓迎する沖縄ブラジル協会、沖縄産業開発青年協会のみなさん