受け継がれる〃家宝〃の鍋=米軍配給、耕地で使用=現在はレストランで活躍=佐辺早苗さん「人生が詰まっている」

ニッケイ新聞 2012年1月31日付け

 「この鍋を見ると、終戦と母を思い出す」——。佐辺早苗さん(71、沖縄)は1個のステンレス製の鍋を大切そうに見つめた。直径25センチ、高さ17センチに「私の人生が詰まっている」。母、外間苗さん(2003年に死去)が戦後に米軍の配給で手に入れた。移住時に携え、耕地では家族の食事を作った。孫にあたる千歳さん(36、二世)が「家の誇り」と受け継ぎ、昨年、サンパウロ市で開店した日本・沖縄料理店「おいシーサー」で今も現役だ。佐辺家と60余年を共に生きる〃家宝〃の話を聞いた。

 戦後、沖縄——。食料、衣類、日用品など占領軍から物資が配給された。「土鍋が主流だった当時、ステンレス製の鍋は珍しかった。母が配給品を分配するくじ引きで当ててきた」。まだ幼かった早苗さんは「大人の気持ちは分からないけど、私らはアメリカ人がからかい半分に投げるお菓子を乞食みたいに拾って喜んでいた時代」と振り返る。
 夫、伊盛さんは復員したものの間もなく亡くなった。未亡人となった苗さんは戦後の復興期に女手一つで早苗さんを含む4人の子供を育てあげた。 「煮込むことが多い沖縄料理を作るのに母はとても重宝していた。よく食べたのは豚汁。お正月は豚肉で作った年骨(骨付き肉)を1人1つずつ食べて年を越した」。
 1959年、沖縄開発青年隊ですでに来伯していた兄行教さんの呼び寄せで、苗さん、妹の節子さんの3人で移住。サンパウロ州ツッパンで縁戚が営むサンマルチン耕地で4年間働いた。忘れず携えた鍋も大活躍。「丸焼きの豚なんかを鍋に入れてもらってみんなで食べたりしましたね」
 63年に出聖。4年後に沖縄県出身の良元さんと結婚、コシンニャなど自宅で製造するサウガジーニョの卸売りで生計を立てた。
 「母が大事に使っていたから、私も大事に使わせてもらおう」—4人の娘は、この鍋で作られた料理を食べた。
 「いつも台所にあった。行事のたびに母がイリチャー(煮しめ)や沖縄そばを作ってくれた」と懐かしむ千歳さんは昨年、日本・沖縄料理のレストラン「おいシーサー」を開店した。
 近年出番が減っていた鍋の歴史を母から聞き、「使わず飾っておこう」と思ったものの「美味しいものを作ってずっと家族を喜ばせてくれた鍋。これからも使っていきたい」と開店時から厨房で活躍させている。
 「大事に使い、次世代にも伝えていければ」。〃家宝〃を前に、早苗さんと目を見合わせ笑った。

レストラン『おいシーサー』=日本、沖縄の家庭の味を=手打ち麺、野菜たっぷり

 昨年9月、サンパウロ市イピランガ区にレストラン『おいシーサー』が開店した。メニューにはゴーヤちゃんぷるー定食、沖縄そば、足てびち、焼き魚やしょうが焼き定食など、沖縄・日本の家庭料理が並ぶ。
 「寿司や刺身なんて、毎日食べるものじゃないでしょう?」と語る経営者の佐辺千歳メイリさんがイメージしたのは〃大衆食堂〃。「日本や沖縄の普段の食事を紹介したい」とメキシコ出身の夫、仲村渠ノエルさん(33、三世)と店を切り盛りする。
 2人は2002年、琉球大学の留学生時代に知り合った。日本文化に親しみ育った千歳さんに対し、祖母が早くに逝去したため「家族は日本文化に関心がなかった。祖父母の生まれた国を知りたかった」という仲村渠さん。沖縄というルーツが2人を結んだ。
 結婚後、メキシコに移住したが日系社会の規模は小さく、千歳さんは「毎日のように食べていた沖縄や日本料理、三線もない。心に穴が開いたみたいだった」と振り返る。
 一方で、ブラジルでも「沖縄料理を食べる機会がない」と嘆く二、三世が増えたことも感じていた。飲食業界とは全く畑違いの2人だったが「料理を通して文化を守りたい」と決意、店を開くため10年にサンパウロ市に移り住み、開店にこぎつけた。 千歳さんの母、早苗さんも手伝い、沖縄ソバは麺から手作り、スープも添加物は使わず豚、鶏、野菜で出汁を取る。
 味付けは素朴だが、旬の野菜を使って油は控えめ、体に優しい。定食は酢の物やサラダなど、野菜たっぷりの副菜が付いて20レアル前後。
 平日は日本食、土曜日のみ沖縄料理を提供している。今後は平日にも拡大する方針だ。
 千歳さんは「お客さんは家族連れの日系二、三世が多く『昔よく食べた懐かしい味』と喜んでくれるのが嬉しい。本場の味を目指したい」と意気込んでいる。
 営業時間は月〜土曜日の午前11時〜午後3時。『おいシーサー』(住所=Rua Bom Pastor, 2302, Ipiranga、電話=11・2129・6731)。