援協=ボランティアは要らない!?=移転先なく…活動を休止

ニッケイ新聞 2012年2月16日付け

 「また引越しになるわね」——。狭い部屋に押し込められたミシンの山を前にため息をつくのは、日伯友好病院ボランティア代表の山下光子さん(80、二世)だ。
 昨年末までは援協旧本部があった文協ビル5階部分で、シーツなどの裁縫作業を行っていた。
 しかし、援協が売買契約を結んだ県連が先月16日に移転、立ち退きを余儀なくされることになり、急きょ同階の別の部屋に道具を運び込んだ。15日現在、文協ビルの地下に一時保管、2カ月にわたり作業が出来ない状態となっている。
 かつて、宮城県人会館が新築されるまでは同館地下を賃貸。その後、文協ビル地階、そして援協本部と転々としてきた。
 「ミシンが整然と並び、皆が分担して作業する様は素敵だった」と語る山下さんは、87年から病院のシーツや枕カバーなどの裁縫を続ける。
 四半世紀経った現在、ボランティアは80代6人を含む19人。毎週火曜日に集って作業を続けてきた。年に約7千枚のシーツ、カバーなどを作っている。
 「きっかけは先に始めた姉の勧め。97年に友好病院で亡くなった後も援協の理念である〃奉仕の精神〃をもって続けてきました。どんな理由であれ、皆で集まれないことは寂しい」と悲しげな笑みを浮かべる。
 援協の菊地義治会長は「病院を25年以上支えてきたボランティアは大切な存在。これからも続けてもらいたい」と話すものの、足立操事務局長によれば「援協センターの神内講堂に移る計画もあったが理事会で検討するような課題だ、まだ探しているところ」と全く目処はついていないようだ。
 設立当初から援協が掲げてきた〃奉仕の精神〃を実践するボランティアらの好意はいつまで続くだろうか。早めの対応が待たれる。