ブラジル初の邦字紙創刊・星名謙一郎に育てられた孤児=住沢泰美さんに素顔聞く=(中)=ハワイで人殺しの過去!?=家族を日本に残して渡伯

ニッケイ新聞 2012年3月16日付け

 星名謙一郎は明治元年から遡ること2年、1866年(慶応2年)に愛媛県伊予吉田(現在北宇和郡吉田町)の宇和島藩士族の長男として生まれた。83年には東京英和学校、現在の青山学院大学に入学。87年に卒業後、上海へ渡ったがその理由やいつまで居たのかは分かっていない。
 91年には契約労働者としてハワイへ渡航。キリスト教の伝道助手として引き立てられ、伝道師として過ごすかたわら、夜学を開き日本移民に対して日本語の授業を行なっていた。
 『風狂の記者—ブラジルの新聞人三浦鑿の生涯』(前山隆、御茶の水書房、02年)によれば、星名が初めて新聞に関わったのはこの頃だ。小野目文一郎(おのめ・ぶんいちろう)が92年に発行したハワイ最初の邦字紙『布哇(はわい)新聞』は、94年頃に岡部次郎牧師の手に移った後、星名の所有となったという。笠戸丸以前に、すでに邦字紙経営に関わっていたわけだ。
 99年には、同郷の出であった末光ヒサ(本名久子、1874〜1954)と結婚した。星名の出生地、伊予吉田とヒサの実家がある卯之町(うのまち)は隣町であり、共に名家であったことから結婚話が進んだようだ。ヒサは98年にカトリック系の同志社女学校を卒業後、結婚のためハワイへ渡った。
 ハワイの新聞発行時代に星名は記事がもとで人を殺めたらしい。『先駆者物故列伝』(1958年、日本移民五十年祭委員会刊)には、こう記してある。
 「三面記事に端を発してゴロツキの襲撃を受けた。一徹短慮の星名氏は、その男を投げたおし首を締めつけたら、そのままいって仕舞った。(中略)熱心な若きクリスチャンだった星名氏は、例えそれが余儀なき過失であったにせよ、一人の人間の生命を彼自らの手によって断ったと言うことが、永く悩みの種となり、それが性格の上にも影響せずにはいなかった」。
 これが原因で心理的な葛藤が生まれ、彼の人生に深い陰影を与えたようだ。そんな経緯をへて、北米テキサスへと移る。
 妻のヒサが卒業した同志社の当時社長で、同郷人であった西原清東(さいばら・せいとう)が北米での米作の先鞭を付けており、星名ともヒサを通して親交があったと推測される。
 後に同志社大学学長となる長男・秦(しん)も生まれ、順調に農業を続けるかに思えた星名一家だが米作で失敗し、ヒサの父が危篤との報せを受けて1904年に急遽日本へ戻ることとなる。
 そして1910年頃、星名は再び海を渡る。家族を日本に残しての単身渡航だった。家族と離れた理由は分からないが、ハワイや北米で満たされなかった野心を持ってブラジルを目指した。
 14年、50代にさしかかった星名は北米での米作経験を買われ、リオ州の山縣勇三郎の農場に指導者として迎えられた後、サントスでの借り暮らしを経て出聖する。そして16年、ブラジル初の邦字紙週刊『南米』を発刊した。『南米』には文芸が載り、日本語に飢えていた日本移民はむさぼる様に読んだが、土地売りが目的の新聞だった。
 星名が売り出したブレジョン植民地では、登記上の問題から土地争いが絶えなかった。入植者らがそれぞれ用心棒を雇い、夜通し土地境界線を守り、隙があれば隣地へと切り込むなど銃撃も絶えなかった。
 ア・マシャードに現在も暮らす栗林誠さん(83、二世)は若い頃、星名を直接知る一世からよく話を聞いたという。
 「土地の境界線上にあった、屋根を葺くための材料となる木を倒した時、星名の土地に転がった。すると『私の土地にあるのだから私のものだ』と言って持ち主に売りつけた。理財家で、早く言えばケチだった」と評判は芳しくなかった。
(つづく、亀山大樹記者)

写真=若かりし頃の星名謙一郎(移民四十年史より)