イビウナ庵便り=中村勉の時事随筆=安心と安全=4月16日=中村 勉

ニッケイ新聞 2012年4月20日付け

 二つの言葉は似て非なるものだが、よく並べて使われるので、注意を要する。『安心』は「こころ」の問題だが、『安全』は「工学技術」の守備範囲の問題だ。工学技術は、もの作りの意欲とニーズ(必要性)を起動力にして、無限の大自然に挑戦し、守備範囲を拡大してきた。しかしその都度、人知の有限性を思い知らされてきた。それが工学技術の宿命であり歴史だ。
 地震の予知技術は進歩したとは言え、今回の東日本巨大地震は予知出来なかった。それが、無限の大自然を前にしての人知の限界だった(だから想定外を多用)。また、フクシマでメルトダウンが起っていたまさにその時、「メルトダウンは起り得ない」と原発関連の物知り達は主張していたことが後から分かり、「人知の有限性」を露呈した。
 露呈すると、「有限な人知が時として間違うことは、宿命だから許せる」(だから今に至るも原発罪人ゼロ)という論理が働くが、それとは裏腹に、人知の有限性を認めようとしない「傲慢」は許せないとの反発も生まれ、その結果、科学不信は増大する。つまるところ、人知が受け容れられる必要条件は、「知らざるを知る」謙虚さだ、と思う。
 今、原発再稼動が日本で問題になっている。政府や電力会社の調査報告は「中間報告」の段階だ。それはフクシマが終っていないからだ。フクシマは、未だ後始末の最中、その見通しも立っていない。総括中の再稼動云々は本末転倒の謗りを招き、原発反対の声を益々大きくし、原発反対の立場も推進論者のそれも落ち着きのないものにしている。
 国家存亡に関わるエネルギー問題の議論に大切なのは冷静で多様な意見の参加だ。自由な発想が求められている今、「始めに結論ありき」は賛否ともに慎むべきではなかろうか。
 地震や津波の震災は、工学技術問題だけでは片付かない。文明の問題に行き着く。人間の問題は、「こころの問題」だから、宗教や文明に亘らざるを得ない。
 【文明論】無限の大自然にどう向き合うべきか、地震国に原発はそもそも無理なのではないか、東京一極集中型でリスクを大きくしてしまったのではないか、今回の大震災は来るべきもっと巨大な地震・津波の警告ではないのか、そもそも近代文明(人間中心主義)とは大自然の法則に背くものだったのではないか、等々の疑問。
 そして、【宗教的瞬間】放射能汚染は、どんなに低い基準値を設けて測ろうが、安心できない。測定器の精度を疑えば、切がない。不測定とはゼロを意味せず、測定器が何らかの原因(精度が低い等)で機能しないということではないのか、自然回魚は食物連鎖の法則により時間の問題で結局は放射能堆積のすえ食べられなくなるのではないか、等々の内なる声が心を揺さぶる。特に、子持ちの母親は、無限の疑問と不安の末、宗教的な覚悟に迫られる。
 風評被害は日本国内問題に止まっているが、やがて日本発の世界問題になるであろう。近隣外国から日本の原発再稼動に待ったが掛る可能性もある。長期間稼動停止による工学技術の劣化も問題だが、原発のメリット(低コスト、無温暖化ガス)と安全性(放射能汚染、対策コストの規模)のトレード・オフ(再稼動賛否の決め手)が議論されるに至る道のりは遠い。