国家事業救った8人の侍=知られざる戦後移民秘話=第4回=国家の命運掛けた大工事=植木動力大臣が特別任命

イタイプーダム当時の写真、左から袋崎、黒木、荒木、千田(写真提供=荒木)

 日本の高度経済成長は1955年から石油ショックが起きた73年まで20年近く続いたが、ブラジルでは68年から73年までの5年間だった。年率10%以上の経済成長を記録したその期間を〃ブラジルの奇跡〃と呼ぶ。
 これを反映して日本企業だけを見ても72年の52社を先頭に73年には98社、74年に78社、75年には60社とわずか4年間で約300社がブラジル進出した未曾有の時代だった(青島孝雄作成の統計)。
 しかし、原油を輸入に頼っていた当時のブラジルは石油ショックによって根本的なエネルギー政策の見直しをせまられた。エルネスト・ガイゼル軍事政権(1974—79)の使命は、このような拡大するエネルギー需要に見合った電力再編を図ることだった。
 ガイゼル大統領はペトロブラス総裁時代からの腹心だった植木茂彬を鉱山動力相に据え、第2国家発展計画(ⅡPND)を発表し、原子力発電計画(伯独原子力協定、75年)、エタノール計画とともに水力発電所増設を急ピッチで進めた。
 60年代から自動車産業が勃興してブラジル最大の電力消費地となったサンパウロ市大都市圏では、十数あった中小電力会社が統合されてCESP(州営サンパウロ電力公社)が設立され、急速な電力再編が行なわれた。
 〃失われた10年〃以前の80年まで、ブラジルの消費電力は増え続けた。それを見越して軍事政権は73年から82年までの間に、電力生産量を2・5倍に拡張した。その中心がイタイプーなどの水力発電だった。
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 78年4月、そんな大事業にも関わらず、当地の常で工期はズルズルと遅れ、そのままでは1年間延期は必至という瀬戸際に追い込まれていた。イタイプーの現場にはカナダやアメリカの技術者が来て指導していたが、それでも予定通りの進行は難しかった。亜国やパラグアイとの契約や、建設国債の利払いなどの関係もあり、このままでは大変な問題に発展する可能性があった。
 遅れを心配した植木鉱山動力大臣は、国家保安命令をMJ社長に対して直々に発令した。ブラジルを代表する5社が共同企業社「UNICON」を作って建設に当っていたが、特別に同社のロナン・ロドリゲス技師を現場側の建設責任者に指名した。そのロナンの中心スタッフが実は青年隊の〃8人のサムライ〃だった。
 まずコンクリート型枠や支保工の設計などを専門とする荒木とコンクリート打設の袋崎が呼ばれた。さらに黒木、安摩、跡部(あとべ)健司(6期、宮城)、千田(ちだ)功(いさお)(9期、東京)、片岡高一(こういち、9期、兵庫)、杉江(すぎえ)勉(つとむ、10期、東京)が次々に呼ばれ最終的に〃8人のサムライ〃となった。
 つまり、第1次の「神代組」(56年渡伯)から10期(64年)という最後発まで青年隊〃総がかり〃だった。他にも二世が十人ほど関わった。
 ロナンは当時、ミナスとゴイアスの州境にあるイツンビアラのダム現場を指揮しており、袋崎もコンクリート打設担当としてそこにいた。ダムという巨大な構造物はまさにセメントの塊であり、コンクリート部門はダム工事において最も中軸となる部署だった。
 イタイプーの現場に緊急招集され、幹部が集まった会議の場でロナンはいきなり「今後、袋崎にコンクリート部門の指揮を任せる」と宣言した。渡伯10年余りの青年が、いきなり国家の大事業をになう6千人の作業員の〃指揮官〃に任命された。ブラジル人だけでなく、アルゼンチン人、パラグアイ人などの混成部隊だ。
 第1期工事全体で2万人の作業員が従事したが、その約3分の1を仕切る立場という、とんでもない大抜擢だった。ちなみに当時、工事の発注主である発電所(binacional)側の実質ナンバー2も園田アデマール(USP工学部卒、バストス)であり、イタイプー建設に日系の活躍はなくてはならないものだった。(敬称略、つづく、深沢正雪記者)