日本に戻るか定住か=デカセギ大量帰伯世代=(2)=金融危機で派遣会社廃業=「日本式サービス広めたい」

ニッケイ新聞 2012年6月15日付け

 以前から日本で貯めた資金を元手に、帰伯後に事業を始める人は多いが、軌道に乗らず断念して再訪日するケースも少なくなかった。08年からの大量帰伯時代には、新しい種が芽吹いていないだろうか。
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 北パラナのロンドリーナで美容室を営む、同州マウアー・ダ・セーラ出身の桜井豊さん(45、二世)。前回紹介した平野アントニオさんが働く美容室のオーナーだ。
 桜井さんは1990年に訪日。最初は愛知県犬山市に住み、家具・物置メーカーの工場で働いた。7年後に同じ職場で、16歳で訪日した樹里さん(32、二世)と結婚し、2人の子供に恵まれた。
 幼少時から日本語を話していた桜井さんは日常会話に不自由せず、日本人の友人が多かった。また、ブラジルの生活様式にもこだわることはなかった。
 日本での経験は「良かった。仕事に対する考え方が違ってとても勉強になった」と頷く。職場では通訳もやったため上司との関係もよく、「働きやすい職場だった」と笑みをこぼす。
 同市に15年住んだ後、滋賀県に転住して友人と派遣会社を設立した。2カ所事業所を持ち4年経営したが、08年、リーマンショックの影響は避けられず、廃業となった。迷った末、「ここにいても仕方がない」と見切りをつけた。
 帰伯後は、樹里さんがエステや化粧品など美容に関心が高かったことから、美容室を経営することに。昨年2月に開店し、免許を取得した樹里さんが美容師として働いている。美容院の経営状態は今のところ上々だ。しかし、「やっぱり楽じゃない。軌道に乗るまでに3年はかかると思って頑張らないと」と表情は険しい。
 従業員は7人で、同夫妻とアントニオさん、もう一人の美容師のほかは、すべて非日系人だ。
 桜井さんは「言葉遣いや会話の内容など、日本のサービスは素晴らしい。それをこちらでやりたい」とこだわり、日本式の経営や教育方針を貫いている。毎朝9時には店を開け、朝礼をするのが日課だ。「ブラジルではお客さんが先に来て後から従業員が出勤したりするが、ここではありえない」と切り捨てる。
 と言いつつも、「厳しくしすぎるとすぐに辞めてしまう」と眉を曇らす。「どこまでやるかは未だに試行錯誤」の毎日だ。すでに開店時のメンバーは全員やめてしまった。「一人ひとりが意識すれば変わっていくはず。今からが勝負。毎日が勉強です」と方針を変えるつもりはない。
 日本に帰ろうと思ったこともある。「うまく行かなくなったらすぐ日本に戻る人もいる。それでは中途半端になってしまう」と自らに言い聞かせるように言う。「そうなれば、行ったり来たりの繰り返しになると思った」。日本滞在時も子供の教育面と仕事面で、常に「どっちつかず」と悩んでいたと明かす。
 今は迷いを振り切ってここに根を張ろうとしている。「店も開いたし、波はあるがこちらで頑張りたい」。そう語る桜井さんの真剣な表情からは強い覚悟が伺われた。
 まったく文化が異なる当地で日本の経験を活かして事業展開を図ることは単なる金儲けではなく、文化普及にも同時に取り組んでいるのに等しい。難しいに違いない。
 しかし、大挙して帰伯した10万人のうち、もし1割が同じことを考えていたら、10年後のブラジル社会への影響は間違いなく大きなものになる。一つの時代の変わり目に居合わせているのかもしれない。(つづく、田中詩穂記者)

写真=美容室を切り盛りする桜井豊さん(左端)一家。8歳の長女は日本生まれだが、今はポ語の方が堪能だという(1月28日撮影)