第3回=03年、第1回大会開催!=ガ・ブエノ街も舞台に

ニッケイ新聞 2012年7月12日付け

 「時間を守る」「挨拶をする」「整理整頓をする」—をYOSAKOI3原則とした。「街は舞台だ」をスローガンに街中で踊る札幌に倣い、文協講堂での公演に加え、リベルダーデ区のガルボン・ブエノ街での開催にもこぎつけた。
 ルールは「手に鳴子を持って踊ること」「曲は5分以内で、ソーラン節を1フレーズ以上取り入れること」。衣装、音楽、振り付けは各自が創作する。
 2003年7月20日。文協大講堂は満席となり、ガ・ブエノ街では第1回の開催を祝うような晴天の下、大阪橋手前からリベルダーデ広場にかけて、足を止めては踊りに見入る人で溢れた。
 「本場の札幌とはイメージも違うし、レベルも比べ物にならなかった」が正直な感想だったが、参加団体の興奮した様子や「すごく感動した。また大会をやってほしい」と言いながら足取り軽く帰っていく観客を目にし、「想いは札幌以上だった」と確信を新たにした。
 人数が多いほど迫力も増すのがYOSAKOI。100人以上所属するチームもあり「会場が狭い。もっと参加人数を増やしたい」との要望があった。また「もっとブラジル社会に見せるべき」との考えもあり、伯社会のテリトリーで開催することを決意した。
 問題となったのはロゴマーク。YOSAKOIの発起人・長谷川岳さんからYOSAKOIソーラン祭り組織委員会(北海道)のロゴの使用許可を得ていたものの、同委員会からは無許可での使用と誤解されてしまった。
 会場の選定、そしてロゴマークの作成—2回目大会開催に向けた課題が浮かび上がった。
     ◎
 伯社会の目に触れること、広く交通の便がよいことを考慮し、2回目の大会開催場所をイビラプエラ公園に決定した。ブラジル人に広めるには最適の場所だ。目指すは「夏のカーニバル、冬のYOSAKOI」。
 しかし市の施設だったため、「気の遠くなるほど書類があり、専門家に頼まざるを得なかった」と飯島氏。使用料も当時としては破格の値段で、特定の業者しか扱えない照明や音響設備の資金もかさみ、総費用は日本円にして100万円に膨れ上がった。
 バストスやカンポ・グランデなど遠方からも団体が訪れ、参加数は21団体、踊り手は約700人と大幅に増えた。1回目の反響の大きさが伺える。
 この年、「大会を活性化しモチベーションを上げるため」と発表会形式からコンクール形式に変更。活気と熱意で寒さを押しのけ、公園内と体育館の両舞台で演技を行なった。
 チームワーク、創造性、ハーモニー、技術性を基準に審査され、選ばれた各部門3位まで、および総合優勝チームに奨励金総計約2万レアルや景品が贈られた。また同日、約200点の応募の中から選ばれた、浜崎マルセリーノ現会長のロゴマークが発表された。(つづく、児島阿佐美)

写真=ガルボン・ブエノ街を舞台に