『志村哲夫文書』を配布=青連運動の貴重な記録=勝ち負けの生々しい証言も=大学や史料館などに寄贈

ニッケイ新聞 2012年7月12日付け

 故・志村哲夫さん(ひろお)が生涯書き溜めた手書きの手記を、岸本晟さんが2年間かけて編集し、『志村哲夫文書』(全5冊、360頁)として45部制作、11日に原本とコピー2部がブラジル日本移民史料館に寄贈された。志村さんはマリリア産業組合に大戦を挟んだ10年間勤務し、同地の産業組合青年連盟(以下、産青連)の同支部長として運動を支え、その後は30年間もコチア産業組合中央会で働いた日系組合の生き字引的人物だった。終戦直後には勝ち組が席巻した同市において、負け組として憎まれ命を狙われるなど激動の時代を生きた。同文書にはこうした経験が生々しく綴られている。

 09年、百周年記念事業の「百年史・農業編」の一部の執筆を依頼された岸本さんは、産青連に関する資料を借りるため志村宅に赴いた。すると志村さんは何も言わず、産青連に関するものだけでなく、何故か書き溜めたものを全て手渡した。
 志村さんは2年前に逝去し、岸本さんは借りた資料を未亡人のとくさんに返却した。しかし、志村さんが岸本さんに全資料を手渡していたのは、『まとめて欲しい』というメッセージだったに違いないととくさんは理解し、「夫の希望を叶えてほしい」と『志村文書』編纂を依頼した。
 志村さんは山梨県出身で、29年に14歳で移住した。モジアナ線セルトンジンニョ駅のカフェ耕地に配耕され、17歳で当時最大の日系人集団地だったマリリア市近郊に移り農業を始めた。20歳で同市産業組合に勤務、23歳で産青連運動に加わった。
 産青連とは、1930年の昭和恐慌に対抗するため日本全国で起こった農村運動の一種で、全日本産業組合中央会が推進した「産業組合拡充5か年計画」の中心的役割を担った組織だ。日本政府の支援の下、産青連の指導者が来伯し、当地でも運動を広めた。
 41年にはブラジル産青連が正式に発足、約4千人の連盟員が参入したが、間もなく第2次世界大戦が勃発した。合法的な組合運動の一種として、戦争中も熱い情熱が注がれたが、終戦前には結局中断させられ、戦後も復活することはなかった。
 わずか数年間の運動だったが、当時の青年たちの記憶には深く刻まれた活動だった。「文書には、戦争で熱気を断ち切られた青年たちの苦悩が描かれている」と岸本さんは説明する。同『文書』は最もまとまった産青連運動の記録と言えそうだ。
 一方、とくさんは終戦後の様子を「私はブラジルの新聞で日本が負けそうだということはわかっていましたが、主人は最後の最後まで『日本は勝つ!』と言っていました」と振り返る。ところが玉音放送により、夫も敗戦認識をするようになり、9月に赤十字社を経由して届いた「終戦の詔勅」をマリリアで広めようとした。しかし勝ち組が95%を占めていた同市では聞く耳も持たれず、負け組として蔑まれた。
 「私が歩いていると『国賊のカカア』と言われました。主人が自分の位牌を持って帰ってきた時は、そんなの見るのも嫌だって怒りました」。通りには負け組の名前が刻まれた位牌が15、6ほど並べられ、勝ち組は線香を立てて喜んでいたという。志村氏の友人一人は撃たれ、もう一人は殺された。当時小さな子どもを抱えていたとくさんは「無事を願って祈りに祈りました。あの時のマリリアの思い出は本当に酷いものばかり」と呟いた。
 同移民史料館であった寄贈式では、とくさんと岸本さんから森口イナシオ運営委員会委員長に文書が手渡され、森口委員長は「史料館として移住者の歴史をこれからの世代に伝えていくのが私たちの責任。尊い資料をありがとうございます」と感謝を述べた。
 今後、同文書はサンパウロ人文科学研究所やサンパウロ大学日本文化研究所、また日本国内の大学や史料館にも寄贈される。