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『汚れた心』8月公開=アモリン監督に聞く=(中)=「弾圧から抗争生まれた」

映画の一場面、退役軍人ワタナベ役の奥田瑛二(左)、主人公・タカハシ役の伊原剛志(Foto: Ricardo Picchi / Nada Audiovisual)

 米国日系人は戦後、国を相手取って裁判を起こし、戦争中の強制収容が間違いだったことを認めさせ、賠償金を支払わせた。当地において、大戦中に強制退去させられたサントス地方の数千家族、コンデ・デ・サルゼーダス界隈の数百家族が人権問題として訴えた話は寡聞にして聞かない。同じ日系とはいえ、ブラジル日系人が独自の精神性を育んできたからだろう。
 そのような中、非日系のフェルナンド・モラエスが勝ち負け抗争を取材したルポ著作『CORACOES SUJOS』(00年)を発表して話題を呼び、それを原作に今回映画化された。非日系だから踏み込める表現であり、実際にそれが現われたことに当地社会の懐の深さがある。
 殺人事件まで起こしてしまった引け目から、日系人は戦後60年余りも勝ち負け抗争に関して口を噤んできた。その心情が理解できる人には、日の丸事件の場面だけで強いカタルシスを感じる。「この出来事はガイジンでなければ語れない」という声は、そういう意味に違いない。
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 アモリン監督に、なぜセリフの9割が日本語で、主な俳優が日本から来ているという異例の映画にしたのかその理由を尋ねると、「40年代のコロニアの内幕を描くには、日本語でないと現実味がでないから」と応えた。勝ち組のはずの登場人物がポ語をしゃべれば、それだけで負け組的であり、当時を知るものには確かに違和感がある。
 ハリウッド映画『ラストサムライ(The Last Samurai)』(エドワード・ズウィック監督、03年)の登場人物が流暢な英語をしゃべっていることに違和感を覚えた人は、アモリン監督のこだわりにうなずくだろう。
 とはいえ、これはブラジル資本で作られた映画であり、当地の観客がどう反応するかが最大の鍵だ。普通の当地映画ならブラジル人が素直に感情移入しやすいように作る。
 ところが、この作品には一般の伯人が「なぜ自分たちが悪者として描かれるのか」と感じ、「なぜ自分たちの言葉をしゃべっていないのか」と奇妙に感じる可能性がある。
 そのリスクを計算しつつも当地大手映画会社から商業作品として製作したという意味で、若い監督ながら器の大きさを感じさせる。その違和感を和らげる意味でも、伯人の強い関心を呼ぶ「夫婦愛」を筋書きの中心に据えているのだろう。前半が比較的に実録風だが、後半の筋書きは実話から大きく逸脱して独自の空想世界に突入し、あくまでフィクション(架空)であることが痛感される。
 この抗争を題材に選んだ訳を聞くと、「規模の大きさ、被害者の多さに加え、抗争が生まれた原因(政府の迫害、白人中心思想)には他に類を見ない根の深い問題がある。それにブラジルの歴史であると同時に日本の歴史そのもの」とし、勝ち負け抗争のブラジル史における特異性を強調した。
 別のインタビュー記事の中で監督は、「戦争中の政府からの強い弾圧がなければ、戦後の同抗争は起きなかっただろう。もし日本語情報が禁止されていなかれば、勝ち組の数ははるかに少なく、このような規模の抗争には発展しなかったのでは」と語っている。
 そこまでこの抗争を当地の歴史に引き寄せて、政府の責任を認識している伯人インテリ自体が非常に稀といえそうだ。(つづく、深沢正雪記者)

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