ブラジル文学に登場する日系人像を探る=ギリェルメ・デ・アルメイダのコンデ街=O Bazar das Bonecas=中田みちよ=第1回

ニッケイ新聞 2012年8月29日付け

 ずっと長い間、私のうちにわだかまりがありました。100年を越したブラジルの日本移民史でいつも語られる辛酸をなめた話。コーヒー園からの逃亡、コンデ・デ・サルゼーダス街のポロン暮らしの話。邸宅に女中奉公や下男勤めをした話。いつでもいつも視点は日本人側からの、つまり内側からのものです。たとえば家族総出で野良仕事をする移民の姿はどんな風にブラジル人に映っていたのでしょうか。コンデ街の日本人を見て彼らはどう感じていたのでしょうか。下男や下女として働く日本移民を見てどんな日本人像を描いていたのでしょうか。そう模索しながらブラジル文学の本を読みはじめてもう何年もたちました。すると、その多くは戯画的ではありますが、かなりの作品に日本人が扱われていることが分かりました。それらの作品を、その時代背景を捉えながら、日系社会と絡み合わせて語ってみようというのがこの小文の意図するところです。

 日本移民を語るとき、必ずといっていいほど登場してくるのがコンデ・デ・サルゼーダス街です。
 コンデ街に最初に住んだのは笠戸丸移民の3家族で、1910年ごろまでに100家族ほどいたといわれています。何をやっていたかというと、男性は大工、ペンキ職人、それから家庭奉公(男は下男、女は台所の下働きや、給仕、掃除)、これらは普通コペイロと呼ばれました。辞書には食器係とありますが・・・。
 一応、コッパというのが食器がしまわれている室。台所の代わりにも使われる言葉ですが、日本にはコッパという概念がないので、適当な訳語がありません。奉公にあがっても日本とは洗濯や掃除スタイルなどもずいぶん違いますから、実際には下働きに使われただけと思いますが、でもまあ、ここでブロークンではあっても先人たちは言葉と仕事を覚え、ブラジル文化を取り入れていきます。「家庭奉公感想日記」というのがコロニア随筆選集2に掲載されていますが、日本の女中奉公のように夜昼こき使われることもなく、比較的、楽な暮らしだったようです。それを裏付けるようなわが亭主の証言もあります。
 1960年初頭にブラジルへやってきた亭主は、農園を飛び出して、飛び出した理由というのが、早朝、鐘で起こされることに「ドレイ」でもあるまいしと腹を立てた。飛び出しても行く先がなくてお屋敷街の張り紙を見てコペイロになったことがある、そうです。コペイロというのは大して仕事もなく楽だったようですが、そのうち、ぼんくら御曹司の数学を見てやるようになり、「お前はアホか」とどなって首。これは言葉の疎通からくる鬱積がそういわせたと好意的な分析もできますけど・・・つまりは人間が短絡なのです。まあ、こんなふうに戦後でも、結構、家庭奉公をやった人間もいたという証左です。

コンデ街といえばポロン

 コンデ街といえばまっさきにポロン(半地下室)というイメージがきます。普通の家ではポロンというのは物置か、使用人が使いましたから建て上げも低く、天井に頭をぶつけないようにしながら人が出入りしました。街路に面して道路すれすれに窓があり、鉄格子がはめられていて、内側からは路上を行く歩行者の足元だけが見え、外側からは中の様子を覗けるものでした。
 道路すれすれの窓ですから人が通るたびに塵・埃が入ってきて、胸がつまるほど空気も悪い(1950年代までは日本人移民には結核患者が多く、ずいぶんサンタカーザ慈善病院の世話になっている・・・と前山隆(註=USP文化人類学助教授、85年から静岡大学人文学部教授、移民に関する著書多数)は、著書『ドナ・マルガリーダ・渡辺』(御茶の水書房、1996年、119頁)でのべています。
 ですが、家賃が上部住宅の半分以下というのが魅力で、経済力のなかった日本人たちが肩を寄せ合って暮らしていたところです。1924年の日伯新聞の探訪記事にこんなのがあります。「・・・30家族の日本人が大部分太陽の光の直射せない縁の下に住んでいる。無論、往来からは窓を通して眼下に寝台が見える。暑い時期などは開け放した窓から女性の寝そべったダラシない姿がそのまま見える」(つづく)