ブラジル文学に登場する日系人像を探る3=ギマランエス・ローザの「CIPANGO」=ノロエステ鉄道の日系人=中田みちよ=第1回

ニッケイ新聞 2012年10月25日付け

 死後出版された『Ave, Palavra(言葉のモザイク)』(2001年、フロンテイラ出版社、第5版)というジョアン・ギマランエス・ローザ(1908—1967)の短編集を手にしたとき、まさかと思いました。
 これは1947年から1967年にかけて新聞・雑誌に発表された60の随筆を編んだものなんですが、その中に「Cipango(ジパング)」が登場するのです。ジパングって、マルコポーロの『東方見聞録』に登場してきた言葉で、つまり日本ですよね。ええっという感じです。
 さて、題のAveという言葉でとりあえず連想するのが鳥なんですが、大判のHouaiss辞書でよっこらっしょと探すと、最後のほうに「寄せ集め」、という語釈が出てきて納得、それでモザイクとしました。ようするにいろんな雑文を集めたものというのが意図するところではないかと解釈したわけです。
 ギマランエス・ローザは生年が1908年で、ブラジルの日本移民と軌跡をおなじくするということもあって、私はもともと気にしていた作家ですし、彼の文章力には一目置いてもいます。第一級品ですね。
 ここに紹介する随筆にはあまり力も入っていませんが、「ソロコ・その母と娘」という短編を訳したときにはホントに息が詰まる思いがしました。日系人が登場しないので紹介できなくて残念です。
 「ジパング・・・ノロエステ線のアラサツーバを過ぎるころから、彼らの数が増えてくる。静かなる侵入者である。二等車のあたりから、その人たちが増加する。肌が褪せたような黄色い人たち。針金のようにこわい頭髪、ほほ骨の高い顔。女たちはほとんど通路や車両の隅にひざを折って床にすわっているところを見れば、いまだに椅子や腰かけに慣れないのであろう。マット・グロッソ(州)にやって来たのか、それとも反対に帰るところなのか。ああ、ジャポンたちよ! それぞれ出身地でグループを作っているようだ。アラサツーバはほとんどが九州の鹿児島出身で、ここカンポ・グランデは沖縄出身である」
 ギマランエスは所用でノロエステ鉄道でカンポ・グランデにいき日本人を目にした、ということのようですが、当時の汽車というのは三等がなくて一等車と二等車でした。
 いまでこそ、日系人やその子孫が全伯的に散在していますが、戦前からカンポ・グランデといえば沖縄県といわれていました。そしてカンポ・グランデに行くにはノロエステ鉄道にのったものです。1962、3年ごろ、私もはじめての有給休暇でノロエステ鉄道にのってマット・グロッソに行きました。時期的にはギマランエスと大差ありませんから、話が重なります。寝台車も食堂車もあり、まだブラジル食が苦手だった私は塩味のラードの野菜炒めに食欲もうせ、げんなりしたと記憶しています。
 ところで、なぜ沖縄県出身者が多かったかというと、これは沖縄出身者には故郷への送金が義務付けられていたこともあり、ノロエステ鉄道の敷設の話に勇みたって参加したからなのです。(つづく)