寄稿=小野敏郎氏を偲ぶ=坂尾 英矩

ニッケイ新聞 2012年11月1日付け

 去る10月22日、東京でブラジル日系コミュニティーでもお馴染みの小野敏郎氏が亡くなりました。氏は四谷のブラジル・レストラン「サシ・ペレレー」のオーナーとして知られていましたが、若い世代には「小野リサのお父さん」の方がポピュラーでした。 しかし、小野さんは戦前のブラジル移住者には無かった分野で活躍した日伯交流史上特筆すべきパイオニアなのです。
 その主な業績を上げてみると——
(1)かって日系コミュニティーの夜の憩いの場は、日系人向け料亭ばかりでした。1950年代後半に移住した小野さんは、ブラジル人相手のビジネスでなければ伸びないと考えサンパウロで初めて日本式ナイトクラブ「ブラックジャック」をオープンしました。
(2)ブラキチと呼ばれる世界的ジャズマン、渡辺貞夫さんのブラジリアン・ジャズメンとの合奏レコード実現を推進したのは44年も前の事です。
(3)世界的名声のギタリスト、バーデン・パウエルや歌手クラウジアを始め多数のアーティストを本邦へ送り日本でのブラジル音楽ブームのきっかけとなりました。日本でのボサ・ノーヴァ初公演はセルジオ・メンデスとされていますが、本当は小野さんが送り出した「トリオ・タンバタジャ」なのです。
 まだ名曲「イパネマの娘」が生まれていない1962年でした。
(4)1970年代に東京四谷に本邦初のブラジル・レストラン「サシ・ペレレー」を開店して以来、現在まで日伯両国人交流の場となっています。
(5)長女リサちゃんを強力にバックアップして日本一のボサ・ノーヴァ女王に育て上げました。
 これらの業績は良く知られていますが、私はここで今まで誰も知らない小野さんの隠れたメリットについて書いておきたいと思います。
 実はブラジルで高齢ミュージシャンたちによく知られている、音楽家でない日本人は小野敏郎氏なのです。例を挙げると、数年前ブエノスアイレスで1960年代のヒットメーカー、ベニート・ディ・パウラにばったり会った時、彼が私に「オノは元気かね?」と訊いたのにはびっくりしました。
 また街頭で旧知のバンドマンに久しぶりに会うと、必ず「オノはどうしているか?」と聞かれることが多いのです。みんなに「オノ、オノ」と呼ばれて親しまれていたのは、自分たちの芸の良き理解者として共感を覚えるからでしょう。
 何故かと言えば、ブラジルでは生演奏家を雇っている店主は、契約したバンドマンが知り合いのプロをステージへ呼んで演奏させるのを嫌ったし許しませんでしが、アメリカのジャズ・クラブなどで行われていたジャム・セッションという、飛び入りアドリブ演奏を、小野さんの2軒目のキャバレー「一番」と、元大同コーポレーション久晃一(ひさ・こういち)社長のナイトクラブ「ミカド」が初めてブラジルの飲食店業界で許したのです。
 当時はボサ・ノーヴァ創生期で多くのミュージシャンはジャズにこっていましたが、アドリブ演奏を自由に発散できる場所がありませんでした。そこへ日本人経営の2店が出現したので音楽界で評判が広まり、有名無名の演奏家がワンサと遊びに来る結果となりました。
 小野さんは日本で終戦後のジャズブームに親しんだし、久社長は学生時代ジャズマンだったので、お二人にとってジャム・セッションという即興の自己表現には何らの抵抗がなかったから自由に演奏させたわけです。
 訃報を受けた私は一時代が終わったような寂しさでいたたまれなくなり、小野さんが好きだった競馬場裏のピニェイロス川に花を流して冥福をお祈りしました。 合掌