第4回=タグアチンガ=サンパウロ州から流れ込む若き血=役員9人中7人が聖北西

ニッケイ新聞 2012年11月9日付け

 タグアチンガの文協広報、田中淳雄さん(あつお、72、福井)は、「ブラジリア老人会は240人も会員がおり、高橋実(みのる)会長を中心に団結を誇っている。去年の3・11では有志がいち早く5万コントを集めて大使館にもって行った。これがキッカケになって全伯に震災募金の輪がひろがったと自負している」とマイクで説明すると拍手が送られた。
 松永行雄名誉会長から県連の園田昭憲会長に記念品が送られ、遷都の前年57年7月に創立した同地文協の沿革と、役員の経歴がスライド上映付きで説明された。
 それを見ながら故郷巡りの世話人、県連の伊東信比古さん(69、大分)は「リンスの人がずいぶん多いな」とつぶやいたのを聞き、記者は思わず膝を打った。
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 松永名誉会長がプロミッソン、佐藤会長がリンス生まれなのを始め、副会長5人、会計、書記までの9人中、ノロエステ線生まれが実に7人を占める。アララクアラ線一人、ブラジリア生まれはわずか一人に過ぎない。つまり同地文協役員の大半が遷都構想前後に、ノロエステから新開地だったブラジリアへ移ってきた二世世代だ。
 終戦後、ノロエステ線生まれの次男、三男の多くが新開地北パラナに移ったことは有名だ。それに加え、同様に首都にも大挙して来ていた訳だ。
 当日の懇親会では佐藤会長の実父・栄一さん(94、神奈川)が歳を感じさせないキビキビとした所作で踊りを披露し、拍手喝采を浴びた。「リンスでは扇子工場をやっていた。51歳、ブラジリアに来てから踊りを始めた」と振返った。
 そんなノロエステ勢の先駆けが、同文協会長を代々務めた松永家だった。シンノスケ、三郎、繁雄、達雄ら兄弟が1958年頃にバス会社ヴィアソン・ピオネイラを創立し、77年ごろには389台も所有し、事実上、首都の公共輸送を牛耳っていたという。その後、あまりの独占状態に行政が介入したほどだったとか。79年には靴製造販売業ミチルス、93年には道路工事、観光業などにも手を広げている。
 老人会の高橋実会長(88、福井県)に聞くと67年に首都へ来る前は、やはりノロエステ線グアララペスに住んでいた。市役所職員から始めて市議1期、副市長3年、市長1年を務めたという。
 「やっぱりノロエステから来た人が一番多いと思う。あの頃あっちは土地が痩せてね。僕も500頭まで牛を増やしたところで、50年代に口蹄疫がはやって7年間輸出禁止になり、経営がきつくなった。いつまでこの処置が続くか分からない。当時ブラジリアは新開地として魅力あったし、気運が高まっていた。前から付き合いのあった松永家がこっちで成功している話も聞いていたし、じゃあこっちへとなったんだ」と当時の経緯を語った。
 日系社会の歴史は、必ずどこかで〃移民のふるさと〃ノロエステとつながっていると痛感される逸話だ。
 94歳の栄一さんの踊りを見た一行の三木路生さん(みき・みちお、72、千葉)は「あの歳であの踊り、杖も突かずにしっかり。並大抵ではない。見習わないと」と何度も肯いていた。同協会の歴史が全てポ語で紹介されたことに関し、一行の宮坂修治さん(しゅうじ、88、長野)は「ブラジル語でベラベラやられると残念。もっと日本語でやってほしかった」との意見をのべた。
 同地では日本舞踊、ゲートボール、フットサル、剣道、卓球も盛んで、当日はYOSAKOIソーラン「喜翔楽」(きしょうらく)チーム20人の元気に溢れる演技も披露された。日本語学校には教室が九つもあり、100人の生徒を16人の先生が教えているという。(つづく、深沢正雪記者)

写真=記念品を渡す松永名誉会長、奥が佐藤会長、右が県連の園田会長/老人会の高橋実会長