第6回=ブラジリア=〝神話〟に加わった日系人=成就するDボスコの預言

ニッケイ新聞 2012年11月13日付け

 タグアチンガの会館には、日系DF文化協会の梅田寛ワルテル会長の姿もあった。会長職を10年も務めると同時に、連邦警察の国際警察(インタポール)部に勤務するエリートでもある。「つい先日も2週間訪日し、日伯の警察交流の打ち合わせをしてきたばかりだ」という梅田さんは、「日系社会全体の発展のために、県連がこのような懇親会を行い、交流を深めることは本当に重要だ」と高く評価した。
 日本国大使館の片山幹雄一等書記官も出席し、「ブラジリアは世界遺産になっただけあって、素晴らしく計画的な都市。世界に類がないそんな町で、日系の皆さんは活躍されている」と語った。
 最後に有志が炭坑節を輪になって踊り「ふるさと」を歌って、懇親会は午後9時に閉会した。
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 翌30日朝、首都から155キロ離れたアナポリスでの交流会にバスで向かう途上、ガイドのジョアン・パリトーさんは、再び博学ぶりをみせ、遷都にいたる歴史を説明し始めた。
 最初に内陸遷都を提唱したのは、ポルトガルの植民地だった1821年、サンパウロ臨時政府のジョゼ・ボニファシオ副頭領だった。翌年に独立宣言、1823年の憲法制定議会でボニファシオは新首都の名として「ブラジリア」をすでに提案していた。
 つまり、海岸都市リオが船による敵襲に脆弱であるとの観点と、大陸的国家の均等な発展という見地から、内陸の中心部に移転させるという考え方は、ブラジル独立と同じぐらい古くからあった。
 遷都という国防・産業上の合理的なアイデアに、宗教的な確信を与えたのは、カトリック教サレジオ会の創始者、イタリア人神父ドン・ヨハネ・ボスコだった。1883年に同神父が夢の中で出会った青年から「中央高原に新しい都市が出現する」ことを知らされたとの逸話だ。
 ドン・ボスコの預言には「南緯15度と20度の間に大きな湖が形成され、(中略)、大きな鉱床があり、川底を掘ると牛乳と蜂蜜があふれ出て、穀物の無限の宝庫となり、カナンの地が出現し、人類の新しい文明が生れるであろう」とある。
 その中で、遷都実現の時期は「二世代後」となっており、『ブ五十周年』では「一世代が60年だと計算すれば、二世代目は1944〜2003年まで」(91頁)と計算する。確かに、この間に、まさにその南緯に遷都は実行され、エジプト神話の鳥イビスを思わせる都市計画の中には「大きな湖」が堰きとめて作られた。
 思えば、北伯にはカラジャス鉱山という「大きな鉱床」が採掘され始め、「川底」ならぬ大西洋の海底からは岩塩層下油田という「蜜」が次々に見つかり、日本移民が先導したセラード開発で当地は「穀物の無限の宝庫」となった。二世代後の最終年にルーラ大統領が就任し、BRICsと呼ばれて世界の注目を集める新興国に変貌した。
 預言をしたのが有名なイタリア人神父、遷都を実行したのが歴代の中でも1、2位を争う人気大統領。首都計画案を公募した時、なみいる外国の有名建築家の高価な模型と精巧な設計図を抑えて、審査員が全員一致で承認したプランは、ルシオ・コスタが前夜の真夜中に霊感をえて、たまたまそこにあった新聞紙に殴り書きした手書きの図面だった。それをオスカー・ニーマイヤーが建築家として具体化した。
 まさにカリスマや伝説的逸話のオンパレード、そのままブラジル建設の国家神話の世界だ。神話に彩られた首都が「人類の新しい文明を生む」のは、きっと次の世代だろう。
 遷都構想には、欧州文明への劣等感に苛まれていたブラジル人が熱望していた新大陸ならではの神話創造という想いが込められていたに違いない。そして、百年単位でみると徐々に具現化しつつあることがわかる。〃神話〃に加わったサンパウロ州等の日系二世、戦後移民らの存在も見逃せない。
 海岸線にへばり付くようにわずかな平地に密集する首都リオを反面教師とする、まっ平らな高原に作られた新首都は、それまでの伝統を完全に無視したものになった。(つづく、深沢正雪記者)

写真=最後に全員で「ふるさと」を合唱