「子孫よ、もっと頑張れ」=上原武夫さん自分史出版=7刊行記念パーティに300人

ニッケイ新聞 2012年11月20日付け

 「子孫への激励、もっと頑張れという気持ちでこれを書きました」。戦後移民で80年代にはサンパウロ市を中心に53軒もの化粧品店網を作った上原武夫さん(たけお、77、沖縄県那覇市)の自分史『思い出の記』の出版記念パーティが13日晩、長男テリオさんら子孫らによってビラ・カロン沖縄県人会支部会館で催された際、そう述懐した。当日は親族や友人ら約300人が招待されて出版を盛大に祝福した。

 上原さんは常々、息子や孫に家族の歴史をしゃべってきたが、「細部を忘れてしまうから、ちゃんと書き残してほしい」と要請され、書き始めたことが出版のきっかけ。子孫が日本語でも読めるようにとルビを振ると同時に、ポ語訳も付けられた。家族写真も入り、308頁、箱入りの豪華装丁となった。300部印刷され、当日配られた。
 上原さんは「戦時中は宮崎に学童疎開した。故郷田原(たばる)は空港の近くで米軍に全滅させられた地域。親戚もたくさん亡くなり、兄弟も3人戦死した」と振返る。戦前移民の親戚の呼び寄せで、1956年に20歳で単身渡伯した上原さんは、最初は農業に従事したが、親友の協力で美容院の経営を始め、そこに化粧品を買いに来る客が多いことに目をつけ、化粧品店を始めた。
 「あの頃、日系人で化粧品店をやっている人はほとんどいなかった」。81年頃が最盛期で53軒もの店舗網「グルッポ・タケオ」を育て、15年間余り活動を続けた。ところが90年ごろから関係者のデカセギが多くなり、グループ活動は「自然消滅した」という。現在も家族で7軒の化粧品店を経営している。
 編集を手伝った宮城あきらさんは、外務大臣表彰を受けたことを自分で書くのを嫌がり、宮城さんにその部分を書いてくれと依頼した上原さんの謙虚さを示す裏話を披露し、「そんな上原さんの魂が本書を通して親族に生き続け、家族の繁栄につながりますように」と締めくくった。
 最後に上原さんは壇上から「家族や親戚に向けて書いたつもりだった。こんな大げさな会になって恥ずかしい。出版に協力して頂いたみなさんに心から感謝したい」と挨拶した。
 同地区在住の比嘉善光さん(ひが・ぜんこう、79、与那城村)は「この会館は上原さんが会長時代に建てたもの。日系福祉団体にも広く協力してきた。今日こんなにたくさんの人が祝福に来たのは、武夫さんの人徳の賜物」と喜んだ。
 与那嶺真次県人会長(62、二世)も「経済的成功もさることながら、広く日系社会を応援する姿勢を子供たちも受け継いでいることが素晴らしい」と賞賛した。
 山城勇さんが「カリー、万歳、ビーバ!」と乾杯の音頭を取ると、会場からは盛大に唱和する声が響いた。子や孫15人が舞台に上がって記念撮影し、11日に77歳の誕生日を迎えた上原さんがボーロに入刀、来場者はパラベンスを歌って祝った。