第9回=アナポリス=2万5千レを震災被災地へ=頼もしい一行参加者の生き様

ニッケイ新聞 2012年11月20日付け

 アナポリス日伯文化協会との懇親会には現地から約60人が参加し、婦人部が朝7時半から準備したという手作りの料理に加え、フェイジョン・トロペイロなど同地の名物料理も並ぶ中、県人別にテーブルに座って賑やかに話した。
 同文協の松原ジョルジ会長(57、二世)は実はサンパウロ市育ちで、仕事の関係で2000年から同地に住んでいる。現在の会員数は97家族で、運動会、ゲートボール、新年会、忘年会、母の日などの行事を行なう。資金集めのヤキソバ会は年に3、4回実施し、300人の来場者の半分はブラジル人だという。
 松原会長は「昨年の大震災の時、2万5千レアルの募金を集め、大使館を通して日本に送った」と胸を張る。3・11という日本の危機に対しては、日系社会が一丸となって支援に取り組んだことが、どこにいっても感じられた。
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 3日目、翌10月1日、朝食の機会にマリンガーからツアーに参加する草川一郎さん(81)と一緒になり、戦後、サンパウロ州から大挙して首都建設に向かう前、多くの二世がまず北パラナの開拓に向かった話を聞いた。
 バウルー近くのドアルチーナに生まれた草川さんは、前年にできたばかりのマリンガーに48年に入植した草分けだ。
 「原始林のど真ん中だったけど、もう日本人は10家続ぐらいいた」と笑う。父の四郎が最初にロンドリーナに様子を聞きに行くと「一番の新開地はマリンガーだ」と紹介され、さらに「そこにカーザ・ペルナンブッカーナが出来た」と聞いた。「あんな大商店が投資を決断する町なら、間違いなくこれから発展する」と考え、入植を決断した。
 「そのあと、土地が痩せたノロエステ線とかパウリスタ線からたくさん入ってきたよ」。そのような流れの中で、首都にも二世や戦後移民が入り込んでいった。
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 早々に朝食を終え、出発時間前には全員がロビーに揃っている。その様子を見て、グローバル旅行社のガイド、中西マリア惠子さん(56、二世)は「集合時間の15分前、30分前に集まっていることは、普通のブラジル人のツアーではありえない」と比べる。「普段は私たちがツアー客を急かす側なのに、故郷巡りでは『揃っちゃっているんだから、どうして時間前に出ないんだ』って逆に急かされるくらい」と笑う。
 28回も故郷巡りに参加している常連の行徳志保子さん(77、二世)=モジ在住=は、「(モジで)お店を始めた時、知人の息子さんとかの大学の月謝を何人か手伝ってあげたのね。そしたら、故郷巡りで行った先々に社会人になった彼らがいて、歓迎してくれるのが嬉しい」と微笑む。
 父鍔本茂さん(つばもと・しげる)は戦前、18歳で船乗りになり、亜国に密入国して洗濯屋になったツワモノだ。4年後に日本に戻って、今度は米国ニューヨークに密入国、そこで出会った永田稠(しげし)からアリアンサ移住地入植を勧められ、力行会に入会して渡伯し、そこで志保子さんが生れた。スザノのセラミカ行徳は夫の兄の会社だ。
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 一行はブラジリア空港から飛行機に乗って、マラニョン州都サンルイスに2時間半で到着。扉が開くと、法定アマゾンの湿気を含んだムッとした熱気が入ってくる。
 貸し切りバスに乗り換えると、地元のガイドが乗ってきた。ブラジル内では唯一フランス人に占領されて創立(1612年)した都市であり、「聖ルイス」は当時のフランス国王ルイ13世にちなんで命名された。3年後にはポルトガル人によって奪い返されたが、世界史上有名なブルボン王朝の絶対君主と同地のとの珍しい接点だ。そのフランス占領から数えて、この9月8日が「400周年」であり、それを記念する旗が市内各所に掲げられていた。(つづく、深沢正雪記者)

写真=草川さん/行徳さん