第10回=サンルイス=二つもあった戦後移住地=養鶏や蔬菜目的に入植

ニッケイ新聞 2012年11月22日付け

 サンルイスに到着した10月1日昼、郷土食レストランでは名物「Arroz de Cuxa」が大人気だった。ビナグレイラの葉を刻んで、ゴマ、乾燥エビなどと炒めてご飯に混ぜた焼き飯の一種だ。海ノリのような独特のまったり感があり、日本人の口に合うようだ。
 現地ガイドは「この料理は黒人奴隷がアフリカから持ち込んだ」といい、植民地時代の〃味〃だと強調する。ただし、サンルイスに住むサンパウロ州出身の日系二世に言わせると「サンパウロでハナ梅に使う木と同じ種類」という。だとすれば意外に身近な素材だ。デザートのアイス類はバクリ、アサイ、クプアスーなどアマゾン流域と一緒だ。
 昼食後、セントロ観光に向かう。ガイドの説明では、欧州からサルバドールは船で60日かかるが、サンルイスなら35日と近く、たくさんの黒人奴隷が連れてこられ、1800年代まではサトウキビ、棉産業で栄えた。米国、欧州への綿輸出基地として、サルバドール以前からの植民地運営拠点として栄えた歴史を持つ。それゆえ1888年に奴隷解放令が出された途端、マラニョン州は没落を始めた。
 その直前までサンルイスは、リオ、サルバドールに次ぐ国内3番目の人口を誇る大都市で、富裕層子弟は欧州で教育を受けるような場所だった。
 海岸線から7メートル上の崖の上にたつ隣の市役所は1689年、となりの州政庁は18世紀末の建設で、「文明化地区はここの建設から始まった」とガイドはいう。その奥のサンルイス大聖堂は1629年建設だから、ブラジル史において最も古い場所のひとつであり、この地区全体がブラジリア同様にユネスコの世界遺産に指定されている。
 ガイドから「ポルトガル人が作った町は、必ず山の手(シダーデ・アウタ)に行政機関を集め、下町(シダーデ・バイシャ)を商業地区にする」との説明を聞き、なるほどサルバドールもそうだと一同納得する。
 メルカードへ下る坂道は狭く、石畳になっていて古き良き欧州の風情がある。一行の熊谷(くまがい)裕子さん(75、二世)は「3年前にポルトガルのコインブラに行ったけど、あそこに町並みにそっくりね」と驚いた様子だった。
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 サンルイスに住む日系人はどこから来たのか?——との疑問を抱き、さっそく現地の日系人4人を招待して行なわれたブリザマール・ホテルでの交流夕食会を取材した。
 戦後移民で同地在住の山田清さん(61、大阪)によれば、サンルイス近郊には戦後二つの日本人移住地が作られ、計45家族が入ったという。
 その一つは、サンルイスに野菜を供給する目的で、ジャミック(後のJICA)が1960年に60キロほど離れた所に作った「ロザリオ移住地」だ。つまり、一昨年の2010年が同地日本人入植50周年だった。
 ロザリオには20家族ほどが入植したが水がでないなどの問題が起こり、2年でバラバラになってしまい、当時問題になった。雨期に小川はできるが、乾季には完全に乾く状態だったという。
 もう一つは、州都に卵を供給するために養鶏中心の移住地をジャミックが1961年に計画した。州政府の補助を受けて25家族の予定だったが、全部入らず、しかもアルミ精錬工場が出来たために立ち退きさせられる羽目に陥った。賠償金を受け取ってパラー州、サンパウロ州、ブラジリアなどに散り散りになってしまったという。
 山田さんは「その2ヵ所以外ほとんど日本人は来ませんでした。あとパラー州から流れてきた家族が5、6家族いるぐらい」という。
 戦前の移住地は日本人が日本人のために作り、一攫千金を狙えるコーヒー、棉などの輸出作物が多かった。戦前に〃農業の神様〃の定評を得た日本移民は戦後、ブラジリアしかり、北伯の州都近郊しかり、悪い土地でも野菜を生産できる技術を期待され、地方政府からの要請で日本人移住地を作った例が多いようだ。(つづく、深沢正雪記者)

写真=サンルイスの州政庁前でガイドの説明を聞くみなさん