「暗殺リストに私の名が」=サンパウロ市 安良田済=終戦勅諭から特攻隊まで

ニッケイ新聞 2013年1月1日付け

 1945年3月、ドイツ軍は降伏した。
 「徴収していたラジオを返却するから取りに来い」という通知がカフェランジアの警察署からあった。兄は早速取りに行った。四年振りに手にする愛品であった。返却するとき、署長は「東京ラジオは聞かないように」と釘を指すのを忘れなかったが、単に口頭だけの注意であった。
 ラジオを手元に置いて聞かないというわけにはいかない。周りに気をつけて、深夜だけ聞いていた。
 日本軍の戦況は、東京ラジオでいうような状況でないことはよくわかっていた。8月に入って降伏は明日か、明後日かと緊迫した雰囲気が漂っていた。
 8月15日の午前1時頃、天皇陛下による敗戦を認める詔勅がラジオから流れてきた。この詔勅は朝まで何回か放送された。
 朝のカフェーを飲み終わると、いつもどおり、友人たちが待っている場所へ行った。私が到着すると、益田実と落合の二人は今か今かと待ちくたびれたように立ち上り、私の悲壮な表情を見てやっぱりダメだったかと半分納得しながら、私から敗戦のニュースを聞いた。
 三人は目に涙を溜めて、ときおり声にならないうめき声のような音をたてていた。そのうち益田が堪えきれずにボロボロと大粒の涙をこぼしながら、ウウウッと声を出し泣き出した。私は男泣きというのを初めて見た。大の男が全身をもって泣いているのだ。
 私の東京ラジオ報告が一週間か十日間続いたある日、益田が満面に笑みをたたえて、「おい、日本は敗けたのではなく反対に大勝利だったのだ。アメリカを勝ちとしたのは、アメリカが戦争に敗けたことが世界中に知れると、アメリカだけでなく、多くの国が大混乱に陥り、収拾がつかなくなり混沌となる。ここしばらくアメリカ勝ちにしておいて、経済的にも磐石にしておいてから日本大勝利発表する戦略だ」というのである。
 私がその矛盾を一つひとつ崩していくと、益田は「そうかな」とうなだれていく。
 益田が入手していた情報は謄写版印刷のもので、ごく簡単なニュースであるという。何でもマリリア地方で印刷されており名和さんのところでかなり配布されているという。しかしこのデマ戦勝ニュースに日本人はすぐ飛びついた。
 まもなく名和さんの家に夜な夜な大勢が集まるようになり、サンパウロの臣道連盟から委員がきて、カフェランジア支部を結成させ名和さんを支部長に任命した。
 それから、カチマケの二組に分かれ、その中間は出現しなかった。
 そんな陰鬱な日が続くある朝。店の戸をあけようとしゃがむと巻紙が地上に投入されていた。幅四十センチ、長さ二メートルの紙は、店で使っている包み紙である。開くと、次の文言が力強い毛筆で書かれている。

安良田兄弟に忠告す
日本必勝の信念に還れ
然らずんば天誅降らん

 天誅組とも臣道連盟とも署名はない。私達は匕首を喉に突きつけられたのである。私と弟はソルテイロ(独身)であるが、兄は三人の子の父親である。「こんな狂人と争うのは止めよう。今後バルコンでは絶対に勝ち負け問題は口にしないことにしよう」と申し合わせた。
 ◎   ◎
 ここでちょっと益田のことに触れておきたい。私の第四兄・繁雄がバウルー市で、タクシーの運転手をしていたとき、益田は同じペンションにいた関係で友人となる。
 繁雄は私たちと商店を開くために、バウルーでの商売を広げた。益田はサンパウロに移転する。そして、そして4年が過ぎる。その間、戦争が勃発し、1942年の対日国交断絶に続くコンデ街強制立ち退き令により、そこに住んでいた益田は追放の身になる。
 そこでマーラ二つと乳飲児を抱え、我々の家になだれこむ。二カ月居候をしていたが、グァランタンという小さな町は益田に職場を与えないので、兄繁雄はカフェランジアにいきブラジル人の店に益田を世話した。
 一月分の生活費と借家を世話してカフェランジアに送る。ブラジル人の店では店主に気に入られるほどのバルコニスタになった。
 私達の店は戦争のため配給制度になり、売れば売るほど損になる時代で、店を閉めることになる。繁雄はプロミッソンに職場を見つける。私は店の残品をもってカフェランジアの兄の店に合流した。
 以上横道に外れたが本筋に戻る。
 1946年7月17日朝8時、カフェランジアはパニックに陥った。特攻隊が活動を開始したのである。その時間に、いつものように私が店を開けると、今井競老人(歯科医)が毎朝のように入ってくる。私より親子ほどの年齢の開きはあるが、話は合うので今井老人との話の時間となっている。
 話はコロニアの諸問題であり、何かについて一言注文をつけねば気が落ち着かない老人である。この老人の話に耳を傾けてくれる人は私一人しかないので、彼の朝の訪問は日課になっている。
 7月17日の朝、いつものように店に入ってきて朝のあいさつを終わるか否かの折、「今井デンチスタが殺られた!」と言いながら市民がなだれ込んで来た。私は「今井」という言葉に頭をかしげ、「おかしいな、今しがた家を出て、今井さんの家の前を通って来たときには、何の妙な気配もなかったのに…」。とにかく駆けつけようと急ぎ足で店を出た。
 「楠さんも殺られたそうだ!」と人々はうなだれる。楠さんは農産物の仲買をする商人である。朝8時の開店時間に戸を開けると、3人の若い者が入って、「あなたが楠さんですか」と聞く。「そうだ」と答えると中の一人が至近弾で心臓を撃った。即死である。3人は一目散に逃げて姿は消えてしまった。(註=パウリスタ新聞『コロニア25年の歩み』4頁には「楠庄平=1946年7月17日。ノロエステ線カフェランジア市。経営する雑貨店で5人組に乱射され即死」とある)
 民衆は勿論、百人ばかりが街を練り歩きながら「リンニャ、バンジード(悪党をリンチにしてしまえ)」と叫ぶ。普段は人の少ないカフェランジアに、こんなに多くの人が居たのかと、あとで驚いたほどであった。
 楠さん暗殺の理由は、何らかの雑誌に載っていた「皇后陛下がマッカーサーの妾になったそうだ」という、日本人にとっては笑いごとではないと判りきっている噂話を、楠さんがピアーダのようにしゃべっていたことが原因らしい。
 今井競さんが狙われた理由は、ほとんど知られていない。今井さんは二世である。苦学して医科大学を卒業した苦労人である。筆者に碁を教えてくれた人であり、ときどき暇があると私の店に来て、私が暇と見るとブラジル文学の話をするのが好きだった。
 だから日曜日は常に碁を打ち、また文学論を述べる習慣になっていた。テロの犠牲になった理由はフォーリャ・ダ・マニャン(フォーリャ・デ・サンパウロ紙の前身)に投書した一文が特攻隊をひどく刺激したことが原因らしい。投書は、コロニアの指導階級の人は常に日本が敗けたと言っていたので、僅かなファナチコ(狂信な)の連中は「負けたと言っている者は国賊であるから死刑に処せなければならない」という論法を実行に移したのであると解説した。
 その上で文中には、「このようなファナチコの群を、警察は厳重に処理しなければならない」とあり、この一言をテロリストは容赦できなかったらしい。
 文協の『移民八十年史』には、今井さんは「即死」となっているがこれは間違いだ。すぐサンタカーザに運ばれ手当てを受けたので即死は免れた。確かに9カ月後に死亡したが、二人は特攻隊から受けた傷が原因であるとの医者の診察であった。実に惜しい人だった。
 当時、テロリスタに襲撃されたが、難を逃れた人が3人もいた。彼らがなぜ暗殺の対象となったのか、理由ははっきりしていない。「金持ちで、日本の敗戦を信じている」からでは理由にならない。この3人には、他者に敗戦を宣伝するような行動は見られなかった。
 敗戦を宣伝したのが暗殺の理由であるなら、多分私は第一に指名されていたはずと思っている。事実、後日のことであるが「第2の殺人リストに私の名が書き込まれていた」と、落合さんが私に知らせてくれた。私の名が第2リストに記してあるのを落合さんに知らせたのは、益田であったと言う。
 誰がなぜ、なんのために画策したのか——、未だに真相はわからない。