《戦後移民60周年》=聖南開拓に殉じた元代議士 山崎釼二=『南十字星は偽らず』後日談=第1回=特高が手を焼く社会主義者=35歳で衆議トップ当選

ニッケイ新聞 2013年1月31日付け

 波乱の生涯を送った元代議士・山崎釼二(1902—1958、静岡県)は55年前の31日、サンパウロ市のサンタクルス病院(旧日本病院)で一介の戦後移民としてひっそりと亡くなった。戦前に社会大衆党から衆議に登りつめ、大戦中にはボルネオの県知事に任命されるなど一世を風靡した人物だった。ところが、そこで出会った現地の娘アインと結ばれて子供をもうけ、終戦後に正妻が待つ日本へ連れて帰国したことから〃二人妻事件〃として世間を騒がせ人生の岐路に立った。釼二がアイン名で書いた本を原作に、高峰三枝子がヒロイン役を演じた映画『南十字星は偽らず』が制作されるほど話題になったが、政治家に返り咲くことができずアマゾンへ移住した。戦後移住60周年を記念し、元有名人移民の知られざる後日談を含めて紹介する。(敬称略、深沢正雪記者)

 若き日に山崎釼二宅に下宿するなど世話になったブラジル音楽評論家の坂尾英矩(81、神奈川県)=サンパウロ市在住=は1958年、彼の訃報が載った新聞を見たとき、ついその半年前に原始林に囲まれた聖南海岸部ペルイベの寂しい開拓地で交わした会話を思い出した。
 《「山崎さん、日本人社会では、こんな不便で利用価値の無い土地を安い給料で開発して何になるんだ、ともっぱら噂していますがね」
 「君、世間で私のことを馬鹿呼ばわりしていることは知っているさ。私はね、農作物で一発当てようなんて思っちゃおらん。ただ、いつかはここが開けるようになるだろう。そうなった時、何年か前にこれだけ開く努力をした奴がいると分かるだけでよいじゃないか。要は努力だけはしたということだよ」
 山崎が言ったとおり生前の彼の仕事は報われなかったが、将来彼が開いた道路や耕地がきっかけとなって、あの辺が発展するかもしれない。そう信じて少ない報酬で開発にひたすら努力した生き方に私はある感動を受けた》(『情熱のリオ』坂尾著、中央アート出版社、08年、164頁)
 かつての新進左派代議士にしてボルネオの県知事、有名女優主演の映画原作者・山崎は、50歳代半ばにして、どんな想いでひっそりと開拓に従事していたのか——。
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 1902年9月に静岡県御殿場市の地主の家に生まれた山崎は、御殿場実業学校を卒業後いったん満鉄に就職するも、母の死を契機として1921(大正10)年に帰国し沼津に住み始めた。
 24年ごろから農民の寄り合いに出入りするようになり、「沼津の大火で追い立てられた借地・借家人の権利回復運動、県の土地強制買い上げ反対闘争などを通して次第に頭角を現していく」(『御殿場高校100年』サイト)。31年に沼津市議当選、35年に静岡県議と駆け足で経歴を積み上げ、37年4月の衆院選ではトップ当選(静岡二区)を果たし、35歳にして政治家の階段を上り詰めた。
 そんな39年、二つ年上で社会主義運動の同志、藤原道子(1900—1983、岡山県)と結婚した。道子は没落農家の7人兄弟に生まれ、貧乏ゆえに小学校5年で中退して印刷所の解版工として働くなど、苦労して夜間学校に通った。栄養失調などに起因する病気で姉や祖母が続けざまに亡くす体験した後、上京して看護婦になり、寺尾享法学博士が御殿場に持っていた別荘で働いていた。寺尾博士の紹介で人生の絶頂期ともいえる衆議・山崎に出会った。(つづく)

写真=1957年頃、サンパウロ市在住時代の山崎釼二(坂尾英矩所蔵)