《戦後移民60周年》=聖南開拓に殉じた元代議士 山崎釼二=『南十字星は偽らず』後日談=第5回=アマゾン移住後すぐ脱耕=移民不適格——の烙印

ニッケイ新聞 2013年2月6日

1957年頃、サンジョアキン街のアパートで。左からアイン、讃ナン(さんずいに南)、朱実、後ろが坂尾英矩、山崎(坂尾所蔵)

1957年頃、サンジョアキン街のアパートで。左からアイン、讃ナン(さんずいに南)、朱実、後ろが坂尾英矩、山崎(坂尾所蔵)

 というのも映画の筋書きが原作とはまったく違っていたからだ。映画では、山崎はアインを日本に連れて帰る決心をしたが、アインがそれを断るというラストに変えられ、しかも元恋人が恋の恨みでアインを刺して終わる。つまり、映画では原作者であるアインが殺され、〃二人妻事件〃は起きないことにされてしまった。原作を書く前の原作者を殺してしまうというパラドックス(矛盾)を孕んだ映画だ。
 山崎は思惑と違う方向へ映画が行ってしまい、落胆したようだ。日本の映画人のセンスからしても「アインは帰ってくるべきではなかった」と宣告されたも同然だった。これがトドメとなって山崎は政治家を諦め、翌54年3月には南米移住の道を模索し始める。
 アインが南洋の気候を懐かしんだこともあり、《ボルネオは英人の統治になって人種偏見が強くて住みにくい。ボルネオと同じ気候風土で、自然環境もよく似ているのがブラジルだ。(中略)白色人種も有色人種も渾然一体になって生活し、其処は微塵も人種偏見がない》(『曠野』58頁)と混血児の将来も考えた。
 その結果、「ボルネオにおいて成し遂げられなかった開拓の夢を南米で実現しよう」(『海外移住』55年9月20日付け)と考えた山崎は静岡海外協会に相談すると、すでにベレンで手広く事業を展開していた戦前移民の山田義雄(静岡県沼津出身)を紹介され、山田商会が所有するモスケイロ農場支配人として働くことにした。のちに北伯最大のスーパー網Y・YAMADAに発展する、あの山田商会だ。
 54年9月に神戸を「あふりか丸」で出港し、アマゾン河口に浮ぶモスケイロ島の同農場に入った。52歳の山崎は年長すぎ、道子との長男嶺一に懇願して家長として同行してもらい、アインとの子である讃ナン(さんずいに南)、朱美、構成家族の鈴木武門、運野守を伴った8人で渡った。
 嶺一が父親孝行のために移住をしたいと母に相談すると、道子は「移民ということは大切な国家の問題であり、若い嶺一が本気で親孝行したいというのならそれも尊いことだと思い、私はむしろ進んで嶺一に父とともに南米へ行くことをすすめたのでした」(『婦人公論』99頁)という。
 54年3月の新聞には「〃二人妻〃の山崎元代議士 南米へ移住手続き」との記事があり、この時点では山崎の実弟祐司らとコロンビアに移住する手続きを始めたとある。最終的に実弟には断られ、嶺一に頼った訳だ。
 ところが「農場経営方針を巡って、赤字補填支出を求める山崎氏に対し独立採算経営を主張する山田氏両者の間にはしつくり合わない空気がかもしだされ(中略)、次第に両者のミゾは深められやがては破綻に向かって大きく揺れ動いたものといえる」(同『移住』)となり8カ月目についに関係が破綻し、山崎は一家を引き連れてサンパウロ市へ出てしまった。
 この頃、サンパウロ市では55年7月3日付けサ紙が「裏切られた楽園の夢 アマゾンは緑の地獄か天国か」との見出しで、山崎との一問一答を掲載し、山田義雄を批判する調子の記事を掲載した。一方、パ紙は無視して何の記事も出さず対応が分かれた状態だった。
 『海外移住』誌でもこの問題を取り上げ、力行会の永田稠会長は次のようなコメントを寄せた。「山崎氏は山田氏に呼び寄せられる前に力行会にも一度相談に見られたが、私としては同氏経歴や家庭事情から移民としては不適格と判断したのでお断りしたことがある」。
 移民不適格——とは辛い烙印だ。しかも移民業界の重鎮からの一言であり、それを聞いた瞬間、山崎の周囲にはさぞや重苦しい空気が漂ったに違いない。(つづく、深沢正雪記者)