連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第9回

ニッケイ新聞 2013年2月7日

「いや、わからんね」
「ブラジルは出生地主義を取っているんです。観光客であろうと、移民の子であろうと、あるいは密入国者の子供であっても、ブラジルで生まれた子供はすべてブラジルの国籍を取得することができます。ましてブラジル人女性の子供です。ロナルド・ビッグズの子供もブラジル人なります」
「それで」
「ブラジル政府は子供の誕生と同時に国外追放処分の決定を覆してしまったんです。ブラジル政府は父親と子供の仲を引き裂く非人道的な決定を行使することはできないという理由で」
「ロナルド・ビッグズはリオで優雅な生活をしていると聞いているが、そんなことがあったんですか。いつか機会があれば取材してみたいものだ。でも、小宮さんは何故、それがブラジルの良さだと思うんですか」
「移住するということは、ゼロからの出発が可能になるということだと思うんです。画家が真っ白なキャンバスに絵を描くのと同じことだと思います。過去を問われることがない。一切の過去と決別できる。それが移住の最大の魅力だと思っています」
「新たなスタートということは言えるだろうが、過去と決別するなんてだれにもできないと思うけど」
「いいえ、決別して見せます。僕はそのために移住するんです」
「だって日本には君を育ててくれた両親も兄弟だっているんでしょう。その絆を断ち切るわけにはいかないだろう」
「いえ、日本にあるすべてのしがらみを断ち切って移住するんです。僕が移住することを友人はもちろん家族も知りません。一切の過去を断ち切るためにはそれくらいの覚悟が必要なんです」
 小宮は怒っているようでもあり、今にも泣き出しそうな表情だった。児玉は日本を離れる時のことを思い出していた。小宮は見送り客もなくたった一人で空港の夜景を見つめていた。小宮の過去にいったい何があったのだろうか。児玉はそれ以上立ち入るのを躊躇った。
 小宮も急に寡黙になった。児玉はスチュワーデスを呼んだ。
「通訳してよ。ワインが飲みたいんだ」児玉が言った。
 小宮の表情が以前の柔和なものに戻った。児玉はポルトガル語会話の勉強方法やブラジルの社会事情などを小宮から聞いた。
「ブラジルは人種の坩堝と言われています。ポルトガルの植民地となり、先住民のインディオやアフリカから連れてこられた六百万人の奴隷、一説には百ヶ国以上の移民がブラジルには入国しているとさえ言われていますが、その移民が混血し、現在のブラジル国民を形成しているんです」
 小宮はブラジル関係の本をかなり読んでいた。
「ブラジルで一番美しい女性の肌の色は何色だと思いますか」
「いや、わからんよ。私が知っているハーフは、ゴールデンハーフくらいなものだからな」児玉が冗談混じりに言った。
 ゴールデンハーフは日米混血の三人グループで、テレビでは売れっ子のタレントだった。
「もちろんゴールデンハーフもいいですが、ブラジルではモレーナと呼ばれる女性がカーニバルでもてはやされるんです」
「そのモレーナというのは何ですか」
「茶褐色の肌の色をした女性のことです。白人、黒人、黄色人種が何代にも渡って混血した結果、生み出された肌の色なんです。それがブラジルでは最も美しいとされているんです」
「早く、そのモレーナにお目にかかりたいものだね」
「児玉さんもそう思いますか。ブラジル人は人種なんてくだらないもので人間を差別しないんです。モレーナの肌の色はその証明とも言えるんです」
 小宮は熱い口調でサンパウロに着くまでブラジルについて語り通しだった。話を聞きながら、本当にそうなのだろうかと児玉は思った。

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