連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第11回

ニッケイ新聞 2013年2月9日

 韓国全土に多くの日本人妻と呼ばれる人々がいた。一九一〇年から一九四五年まで朝鮮半島は日本の支配下に置かれ、その支配政策の一つに内鮮結婚があった。朝鮮人と日本人の結婚奨励である。
 朝鮮人も天皇の下に「平等」であり、日本人、朝鮮人、「差別」することなく結婚すべきだ——これが朝鮮人の差別に対する怒りをそらすための方法であり、朝鮮統治を揺るぎないものにするための政策であることは明白だった。
 一九四五年八月十五日の敗戦。この日を境にして、中国や朝鮮半島から続々と引揚者が日本の土を踏んだ。しかし、内鮮結婚によって結ばれた日本人妻は朝鮮の地に止まった。彼女らには朝鮮人の夫があり、愛すべき子供たちもいた。彼女たちが日本に引き揚げるためには夫や子供を置き去りにしなければならなかった。多くの日本人妻はそれを拒否したのだ。
 敗戦と同時に彼女たちの運命は一変した。三十六年間の罪過が彼女たちやその子供に負わされた。彼らは貧困と差別に苦しんだ。政策とはいえ最も人間的なところで朝鮮の人々と関わった日本人女性やその子供たちが日本人の罪過を一身に背負わなければならなかったのである。
 日韓条約締結以後、日本人妻とその子供たちは日本の土を踏むようになったが、貧困に喘ぐ日本人家族は帰国もできずに息をひそめるような生活を送っていた。トラック運転手のアルバイトをして旅費を稼ぐと、児玉は一人で韓国を訪れた。在韓日本人の問題を社会学のレポートテーマに選んだのだ。それ以来韓国からの引揚者問題に深く関わるようになっていった。釜山と下関の間を日韓定期連絡船が就航している。児玉自身も数回この連絡船に乗り込み、引揚者と伴に帰国したこともある。
 しかし、日本は決して安住の地ではなかった。彼女らに向けられた視線は惨めな敗残者を見る目に等しく、その子供たちは韓国人として差別された。日韓混血児たちの中には日本人であると主張した者もいた。同様に韓国人であると主張した者もいた。すべての者が日本に帰国後、差別の中で苦悩した。韓国人として生きるべきなのか、自分たちは日本人なのか。彼らの多くは生きる座標軸を見失っていった。
 児玉は在日の交流の場として誕生した「マダン」編集部に、彼らの意見を聞くために頻繁に顔を出していた。そこで朴美子と出会った。
「私、ウリマル(母国語)の勉強を始めたんです」
「今度、ソウルに行ったら韓日辞典を買ってきてあげるよ」
 金素雲編著のその辞書を児玉は、金素雲のサインを入れてもらったものを持ち帰った。児玉は韓国を度々訪れているうちに、在韓日本人や広島、長崎で被爆し、戦後帰国した在韓被爆者の記事をいくつかの雑誌に寄稿し、原稿料を稼ぐようになっていた。詩人でもある金素雲を取材して以来、ソウルに行った時は時間が許す限り彼の家を訪ねていた。
 その頃の朴美子の語学力は、簡単な日常会話を話せるようになっていた児玉に比べても劣っていた。彼女の家庭では韓国語を話すことはなかった。彼女は早稲田大学に進学したいと受験勉強に熱を入れていたが、大学に入学することが目的ではなく、在日韓国人サークルの韓国文化研究会に入るためだった。
 児玉と朴は急速に親しくなり、アルバイトで書いた記事の原稿料が入ると、美子を連れて飲み歩き、最後はラブホテルに泊まった。
「美子、俺と一緒に暮らさないか」
「暮らしてどうするの」
「どうするって、気が合えばそのまま結婚したってかまわないじゃないか」
「冗談じゃないわ。結婚なんて考えたくもない」
「どうして」
「私は二十歳で死ぬから」
「俺は真剣に話をしているんだ」
「私も真剣なの」
「二十歳まであと一年もないだろう。その君が、何故、死ななければならないんだ」
「二十歳で死ぬと決めたからそれまでは生きているだけよ」

著者への意見、感想はこちら(takamada@mbd.nifty.com)まで。