イビウナ庵だより=2月18日付け=中村 勉=アルジェリア事件と1989年夏

ニッケイ新聞 2013年2月20日

 アルジェリア事件後1カ月が経つ。犠牲者となった遺体を飛行場で出迎えるTV映像は正視にたえなかった。1989年夏、私は当にあの場所にいて、HA君の遺体を出迎えた。記憶が一辺に甦ってきたからだ。
 当時、イラン・プロジェクト(IJPC)の撤退交渉に携っていた。最終段階で、HA君がイラン行きを希望した。虚弱体質だったが、頭脳抜群で法務部(当時の会社では文書部と言っていた)のエースで、詰めの交渉では要のポジションにあり、まさに「余人をもっては代え難い」人材の出番だった。
 このプロジェクトを決断したIY副社長(当時、翌年社長に就任)から、偶々鞄持ちで同行したブラジリア出張の際に、「日本は石油調達に失敗した為に太平洋戦争を強いられた。この失敗を2度と繰返してはならない。IJPCは日本にとって、石油確保の為の大事なプロジェクトなのだ」と直接聞いた。
 当時は、後に自分が撤退交渉に当たることになろうとは思いも寄らなかった。IYは旧制第三高等学校時代に学んだ西田哲学に心酔し、社員への訓話にも哲学者カントの言葉を引用するような人だった。企業の目的は「社会の問題を産業的に解決すること」が持論だった。
 しかしその後、ホメイニ革命とイラン・イラク戦争という二重の不運に見舞われたIJPCは、石油採掘権確保の条件だった石油化学プラントの建設自体の完成が危ぶまれ、注ぎ込まねばならない資金量が青天井になった。1988年、レーティング会社(企業の株価に対する評価や格付けをする証券会社)から査定外との判定が出る恐れが出て来た。
 そうなると市場での資金調達ができなくなり、商社の存亡にかかわる。何としても、損失の上限を定める必要があった。文書部はエースHAに代え、もう一人のエースを登板させてきた。総力を挙げた努力の御蔭で、1989年10月イランとの間で友好的事業清算が合意され、1990年2月イラン側に清算金を支払い、私も同年3月末離任した。離任書には、「約1万人の社員が生涯をかけて稼いだ利益を、一つのプロジェクトがフイにしたことになる」と書いた。
 巨額な清算金を賄う為に、会社は保有株式と保有不動産の一部を売却、世間からは「バブル崩壊の引き金を引いた」と批判めいたコメントを頂いた。その後NYへ赴任する前に、谷中にあるHAの墓に参り、「おい、君の手料理の約束まだ忘れていないからな」と念を押した。
 「社会問題を産業的に解決するのが企業だ」と論じ、「トインビーを読め」と指南戴いたIY氏も、「イランとロンドンに連れてきてくれたお礼に、手料理をご馳走します」とか「世界の2大音楽家は、ベートーベンと山口百恵です。ベンさんはどう思いますか?」といたずら顔で煙に巻いたHA君も、今やこの世にはいない。
 今アルジェリア事件で、マスコミは「企業戦士」なる言葉を思い出したように使う。何故かその言葉が虚しく悲しく響くのは1989年夏の所為か。