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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第17回

ニッケイ新聞 2013年2月20日

 体を回転させたはずみで彼女と視線が合った。彼女の踊りは児玉を挑発するように激しく腰をくねらせ、踊りながら四つ目のボタンを外す仕草をしてみせた。そして踊りながら児玉の目の前までやって来た。香水と彼女の体臭が混ざった匂いが漂ってくる。しかし、雰囲気がそうさせるのか、決して不快な匂いではなかった。児玉は覚えたばかりのポルトガル語で話しかけた。
「ケ・リンダ!(何てきれいなんだ)」
「オブリガーダ(ありがとう)」
「トマ・セルベージャ・オウ・ウイスキー・コミーゴ(ビールかウィスキーでも一緒に飲もう)」
 彼女はニッコリと笑った。児玉は空いているテーブルに誘うと、彼女はテレーザと名乗った。児玉も自分の名前を口にしたが、なかなか発音しにくい名前のようだった。ビールを飲みながら話をしたが、名前とどこに住んでいるかを話したくらいで、会話は数分でとぎれてしまった。児玉の会話力はそこまでだった。
 彼女はそれでもゆっくりとした口調で懸命に話しかけてきてくれた。児玉はそれに答えようとしたが、やはり無理だった。仕方なくポケットから小さな辞書を取り出して、彼女に渡した。
 テレーザは辞書を取り出すと、ページを開けて「NAMOR」の項目を指で示した。「恋愛」という意味だった。その次に彼女が開いたページには、「HOTEL」が示されていた。
 テレーザは児玉にホテルに行く気があるのかどうかを確かめていたのだ。その意味がわかると、「タ・ボン(いいよ)」と答えた。
「アゴーラ?(今…)」テレーザが聞いた。
「アインダ(まだ)」
 児玉はまだ酒を飲んでいたい気分だった。ボーイを呼んでウィスキーを注文した。オールド・8というブラジル国産のウィスキーが口に合った。ボーイは三分の一が空いているオールド・8のボトルと氷、ミネラルウォーターを運んで来た。ボトルにはメジャーが貼ってあり、ペンライトでメジャーを示しながら何かを言った。児玉には意味がわからなかった。
「彼は旅行客なのよ」テレーザがボーイに言った。
 その答えにボーイは納得した様子で引き上げていった。ボーイの言った意味がわかったのは、飲み代を支払うときだった。ボーイは再びメジャーを示しながら、料金を児玉に告げた。ボトルに貼られたメジャーで飲んだ量を計り、それによって料金が決まった。最初にボーイが指し示したのは、飲む前のボトルの量を客に確認させていたのである。
 児玉は辞書を引きながら懸命にテレーザに話しかけた。サンパウロに来てまだ一ヶ月も経過していないこと、新聞記者をしていることなどを話した。テレーザに児玉が観光客ではなく、新来の移民だということがようやく伝わった。
「ブラジルは好き?」テレーザが聞いた。
「もちろん」
 会話は簡単なものだった。しかし辞書を引きながら一生懸命に話しかける児玉に好印象を抱いたのか、テレーザも嫌な顔をせずに単純な会話に付き合ってくれた。やがて二人の会話は完全に途切れてしまった。
 テレーザは児玉の手を取ってダンスフロアに誘った。
「ヴァモス・ダンサー(踊りましょう)」
 彼女の真似をしてサンバを踊ってみるが、足のステップも、体も、激しいリズムについていけない。児玉の踊るサンバは最後は阿波踊りになっていた。他に日本人客がいるわけでもなく、児玉は酔いにまかせて、好き勝手にフロアで踊りまくった。
 奇妙なサンバにテレーザが声をあげて笑った。
「オッチモ(上手よ)」
 他の客やフロアで踊っている女性も、児玉に声をかけた。
「ジャポネース、ダンサ・ベン(日本人、やるじゃないか)」
 気がつくと、テーブル席の客も児玉の踊りに腹を抱えながら笑っていた。汗が噴きだしシャツは汗にまみれた。


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