ブラジル文学に登場する日系人像を探る 6—ジョセフ・M・ルイテン「ブラジルのコルデル文学」—民衆本にうたわれる日系人=中田みちよ=第2回

ニッケイ新聞 2013年3月5日

 1920〜30年にかけての時期に、ブラジルでコルデルがもっとも隆盛だったといわれます。とりわけ北部や北東部がさかんでした。その当時、一番の交通手段は舟で、すべての大きな港に、小冊子が搬入され、そこから内陸部の各都市に出回りました。
 コルデル作家としての第一人者はレアンドロ・ゴメス・デ・バーロス(Leandro Gomes de Barros、1865—1918年)、パライーバ州生まれ、レシフェでスペイン風邪により死亡。陽気(トラバドールの基本条件)で、逸話や事件の語り手として非常に優れていたといいます。千編以上の小冊子を書き、その後、ジョアン・マルチンス・デ・アタイデが未亡人から著作権を買いとり、さらにジョゼ・ベルナルド・ダ・シルヴァに売るという具合で、50年代に入るとジョゼ・ベルナルデス・シルヴァ社になりました。
 著作権に関しては非常におおらかで、先人の作った詩の語尾を変えて自分の名前で発表など朝飯前。注目されるのは小冊子の発行人であり、作者ではなかったという事情が一般的だったようです。
 総体的には2万から3万のコルデルが印刷されているということですが、素材の多くは新聞用紙で、そのために長持ちしないんですね。読み捨てにされます。しかも愛好者は伝統的に内陸部の低所得の人たちで、字が読める人に読んでもらうわけですから、散逸してしまいました。
 その小冊子の印刷に大いに貢献したのが、1808年にブラジルに転住してきたポルトガル王室です。それまではポルトガル本国で印刷したものを郵送していたのですが、王室とともにようやく印刷機が導入され、新聞などが発行されるようになるわけです。共和制になっても教育普及率は上がらず、ブラジルは今でも新聞購買率が低く、人口一人あたりの書店や図書館が少ない国です。
 これは農牧業の発展と鉱物資源の開発が優先されたので、ブラジルは工業化が遅れたという事情もあるわけで、閉鎖的な農村に拘束された民衆は、文字を習得したいという願望すら抱きませんでした。
 1882年現在、ブラジルで登録された書店数は450軒といわれています。同じ年、マドリッドでは市内だけで500軒、ブエノスアイレス市は2千軒を数えていますから、いかにも文字から縁遠い世界でした。
 最近は、サンパウロ市内ではずいぶん新聞雑誌の売店が増えて先進国並だと思っていたんですが、ナタール市に娘と行ったときには、雑誌を読みたくても市内にはほとんど書店が見当たらず、あるのはビキニや水着の売店ばかり。結局手に入れたのは空港でした。ブラジルはいろんな意味で格差の大きい国です。
 さて、サンパウロ、パラナについで日本人が多いのはアマゾン流域ですが、これは戦後、移民協定が再開される以前に、民間人の辻小太郎が、時のヴァルガス大統領に図って、導入枠を取り付けたからなんです。
 『アマゾン』という汎アマゾニア日伯協会が移住60年を記念して発行した本がありますが、それによると、1941年当時、べレン市に約70家族の日本人が居住していたといいます。何をしていたかというと野菜作り。約半数はその野菜の小売り。
 1942年、ドイツの潜水艦がブラジル沿岸で商船を撃沈させ、乗客607人が死亡するという事件がおきました。まもなくブラジルはドイツ、イタリアに宣戦布告(1940年三国同盟)。コンデ街の人たちが立退き令を受けた事は前にのべましたが、べレンでも同じことが起きました。(つづく)