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舞踏家=大野慶人と伯国の深い絆=時代の〃開拓者〃の共感=(上)=北海道、秋田の風土と舞踏=当地公演6回で最多

ニッケイ新聞 2013年3月7日

「日系人のおかげで他国とまったく反応が違う」と語る大野慶人さん

「日系人のおかげで他国とまったく反応が違う」と語る大野慶人さん

 「大野一雄は北海道で開拓者の家族の一員として生まれ、新大陸ブラジルには強い共感を持っていたと思います」。舞踏家として世界的に有名な大野一雄(1906—2010、北海道函館)の息子、慶人(74、東京)は6度目の来伯公演に当たり、5日午前に聖市内ホテルで取材に応じ、当地への気持ちをそう代弁した。「公演回数はブラジルが一番多い、次がカナダ、ドイツでしょうか」とも。この機会に慶人の想いを中心に、縁の深い当地との関係、一雄の戦争体験や秋田の風土と舞踏の関係などを聞いてみた。(敬称略)

 大野一雄が初めて海外公演したのは1980年の仏ナンシー舞踊祭で、74歳だった。それから積極的に世界中を公演して回り〃OHNO〃として認知された。まさに同じ74歳で慶人は縁の深い当地へ。「改めてブラジルへ…、なにか不思議な気持ちです」。
 ナンシーで伯国から参加した演出家アントゥネス・フィーリョと意気投合し、86年に当地初公演につながった。「他国との最大の違いはたくさんの日系人がいること。最初からとても反応が良かった。日系人が長い時間をかけて日本文化をブラジルに根付かせていてくれたからだと思う」。
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 6日付けエスタード紙文化欄にも「慶人が舞踏芸術を教えに来聖」「大野一雄は世界のダンスを一変させた」等の見出しで、大きく紹介されている。フォーリャ紙など多くの当地マスコミが取材に押し寄せている。
 日本独特の伝統から生まれ、伯人にも通じる舞踏とは何なのか——。
 一雄の祖先は富山の出で、北前船が江戸時代に蝦夷地に航路を延長する流れを追うように、祖父の代に函館へ移住した根っからの開拓民の家系だった。「その開拓精神がブラジルにも通じる」と慶人は見ている。
 秋田から嫁いだ一雄の母は、函館にロシアなど領事館や各種外国料理店があった関係でロシア料理を学び、家庭でも作った。母の兄弟はみなクリスチャンで西洋との親和性が高い家庭環境だったようだ。
 一雄は幼少期に母の実家秋田に送られ、そこで人格形成した。当時の秋田は開明的な文化の先進地だったようだ。のちに一雄に踊りを教える石井獏、戦後共に暗黒舞踊を作る土方巽などを輩出している。
 日本体育大学を卒業した一雄はキリスト教系学校の体育教師になった関係で、ダンスを教える必要が生じ、石井らに習う。その後徴兵され満州に7年、戦中ニューギニア戦線に2年間も赴いた。「敗走に次ぐ敗走、つらい経験をしたようです」と慶人は推測する。
 「父はミッションスクールで外国人教師とも親しく付き合い、自らも洗礼を受けたほど。外国人と殺し合うという戦争体験はあまりに残酷なもので…、私たちは家庭内でほとんど戦争の話をしなかった」と振り返る。
 終戦時にオーストラリア軍に捕まって捕囚生活を送ったあと、一雄は内地に送り返される船中、「やっと日本にかえれるぞ」と喜びあうのも束の間、たくさんの戦友が祖国を目の前にして病気などで亡くなり、次々に海中に水葬された。
 その時に、ゆらゆらと海面に浮かんでいたクラゲの印象が忘れられず、帰国後すぐに「クラゲのダンス」を発表した。水葬された戦友への言葉にならない追悼の想いを込めた渾身の踊りだった。(つづく、深沢正雪記者)
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 公演「Ventos do Tempo(時の風)」7、8日共に午後8時、聖市SECSコンソラソン7階CPT(Rua Dr. Vila Nova, 245, Sao Paulo Tel=11・3234・3000)

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