連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第30回

ニッケイ新聞 2013年3月9日

 佐織の方も甘い言葉を期待していたわけでもなくそれで納得してくれた。二人で暮らすのが自然だと小宮も佐織もそう思えるようになったから結婚する。それだけのことだった。
 水上温泉を旅行した後、アパート探しをするのが二人のデートになった。結婚に備えて新居を探し始めたのだ。
 小宮は佐織を両親に紹介した。両親も控え目な佐織を気にいってくれた。小宮は佐織の実家も訪ねた。佐織がすでに両親に話をしていたのか、結婚に反対することもなく、話題は結婚の日取りや式場に集中した。双方の家で日取りが話し合われ、結婚は秋に行われることになった。
 佐織の父、武政太一はどちらかと言えば無口で無愛想な小宮に好感をもったようだった。
「開業資金を今、一生懸命に貯めているところです」
 こういう時の小宮の目は輝いていた。農業だけではなく、不動産業でも成功している武政は、小宮もやがて事業で成功を収めるのではないかという思いを抱いたらしい。小宮の持つ精悍さと事業欲を武政は独特の勘で感じとっていたのだろう。将来は自動車ディーラーと車検工場を兼ねた自分の店を構えたいという小宮に協力を約束してくれた。
「今はほったらかしの山になっているが、その山の麓をバイパスが通る計画がある。バイパスが開通すれば、その土地を使って事業を始めてみるのもいいだろう」武政は一人ごとのように言った。
 佐織の様子が急におかしくなり始めたのはそれからわずか一ヶ月後のことだった。
 二人は毎日夜十時頃、どちらからともなく電話で連絡を取り合っていた。その連絡が佐織から途絶えがちになり、小宮からする回数が多くなっていた。やがて佐織からの電話はまったくなくなり一方的に小宮がかけるようになった。電話に出る佐織の声は明らかに沈んでいた。
「どうした。何かあったのか」
「いいえ、何もありませんが……」
 重い口をようやく佐織が開いた。
「あなたが被差別部落の出身だということを両親には伝えていなかったんです」
「それで……」怒った口調で小宮が聞いた。
「あなたが部落出身であろうとなかろうと、私はあなたが好き。そんなこと、関係ないと思っていたから、両親にも言わなかったの。隠すつもりなんかなかったのに……」
「だから、それで何があったんだ」
 小宮の心に不吉な予感が走った。
 数日後、二人はいつもの喫茶店で午後七時に待ち合わせた。小宮は佐織の態度が普段とまったく違うことに直ぐに気づいた。佐織は運ばれてきたカフェオレにはほとんど口も付けずに黙ったままだった。
 小宮は佐織をドライブに誘った。車に乗ってからも佐織は俯いたまま何も話そうとしなかった。
「いつまで黙っている気だ。話すことがあるんだろう」小宮の言葉に促されようやく佐織が口を開いた。
「あなたとこのまま結婚できると思っていたの。そうしたら……」
 小宮は前方を見たまま表情ひとつ変えずハンドルを握っていた。
「両親から結婚を反対されています」佐織が意を決したように言った。
「理由は」間髪を入れず小宮が聞いた。
 佐織は再び黙り込んでしまった。
「理由は」
 感情を押し殺した乾いた声で小宮が再度聞いた。それでも佐織は下を向いたまま何も語ろうとはしなかった。
「答えたくなかったら答えなくてもいい」
 小宮には確信があった。
「俺が部落だからだろう。それが反対の理由なんだろう」
 好意的だった佐織の両親が態度を急変させる理由はそれ以外には考えられなかった。佐織は顔を上げ、小宮の顔を見つめながら頷いた。

著者への意見、感想はこちら(takamada@mbd.nifty.com)まで。