442日系部隊のこと=宮坂国人も説いた意義=パラグァイ 坂本邦雄

ニッケイ新聞 2013年3月19日

 ニッケイ新聞(3月8日)のコラム「樹海」で、邦画(10年、監督・すずきじゅんいち)『442日系部隊、アメリカ史上最強の陸軍』がシネマ上映された記事を感動して読んだ。
 第2次大戦で日系兵士がドイツ軍とアメリカの人種差別の二重の強敵を相手に勇猛果敢に闘った世界史的偉業の民族ストーリーである。ハワイを中心にアメリカの日系二世志願兵で編成された連隊戦闘団だが、その頃は各地の強制収容所に在った在米邦人は、日本又はアメリカの何れの国に忠誠を尽くすべきかの選択に悩んだ。
 これに明快に答えたのが当時の日本の首相だった東條英機の、「逡巡せず、日頃から世話になっている居住先国に絶対な忠誠を誓うべし」の一言であった。正に武士道(サムライの精神)である。それで、迷うことなく挙って応召した日系志願兵は徴兵予定数を遥かに上回り、次々に増える戦死者や傷病兵の補充に事欠かなかった。
 ここで思い出すのは戦後1951年に初めてアメリカで作製され、その翌年にはオスカー賞にノミネートされた戦争映画『第442日系部隊』(英=ゴー・フォー・ブローク・GO FOR BROKE! 邦題「当って砕けろ!」、スペイン語 ! A POR TODAS !)がパラグァイでも上映された際のことである。
 筆者は当時アスンシォン市で苦学していた頃で、人種偏見の強いアメリカでジャップと侮蔑される日系兵士が欧州戦線でいかに祖国アメリカの為に勇戦したのかに強い関心を抱き、二度もエストレリャ街の今はないスプレンディド映画舘へ観に行った。
 その後、パラグァイへの日本人移住がまだ再開されていなかった時期に、戦前のラ・コルメナ植民地の生みの親たる宮坂国人氏が同地を終戦後初めて訪れた時に、宮坂さんも矢張りサンパウロでその映画を観て来たものと見え、我々移住地の青年達に「442日系部隊」が持つ尊い意義を語り、なお名優ヴァン・ジョンソンが扮するウエストポイント陸軍士官学校卒業ホヤホヤの金ピカの生意気な士官が、何かの言い掛りで一人の二世兵士と議論になり、柔道の技か何かは知らぬが、大男のその士官が易々と小男の二世兵士の腰車で投げ飛ばされたシーンを面白可笑しく話されたのを忘れない。
 筆者も実はそのシーンは見て知っており、他にも件の士官が白兵戦の突撃で二世兵士達の後を急いで追って行く姿や、白人兵が442部隊は皮膚の色から野戦で夜目に見えない米軍の〃秘密兵器〃なのだと揶揄したり、ドイツの降参兵がいつから日本は連合軍に寝返ったのかと驚いたり、瀕死の重傷を負った兵士が仏教の数珠を爪繰っているのをカトリックの従軍僧が見て、祈りを上げて最後を看取って遣ったなど数々の場面が印象に強く残っている。
 因みに筆者はこの「442部隊」のことは、当時ラ・コルメナでパラ拓事務所が時々出していたガリ版刷りのコロニア文芸誌『緑地』に感想文を寄稿した覚えがある。
 さて、話は冒頭の邦画上映のことに戻るが、そのシネマにいた多くの観客は涙を流し、一人の北京生まれで80台のある女性は辛かった戦時中のことを思い出し、最後まで泣きっ放しだったと言う。そして「あの時代の二世は、当時の父母の心を受け継いでいたから、あれだけのことができた。今の二、三世とは違う」としみじみと語ったそうだ。それで「樹海」のコラム子はぜひポ語訳字幕を付けて上映し、今の世代に見せて貰ったら良いのでは、と締め括っている。
 しかしこれは、比較的まだ日本語が盛んだと言われる当の我々パラグァイでもひとごとではない問題なのである。人付き合いが悪い筆者はこれまでに日本人会や何れの会にもツイ入りそびれていたが、最近になって初めて入会したアスンシォン老人クラブ「寿会」で話題になった事は、数ある日本人会を含む色んな日系団体では世代交代が進み、会議や会報其の他日本語の書類を良く読める者が少なくなり、会話用語も多くはスペイン語になりつつある傾向にある。
 そして、日本語が未だ完全に通じるのは老人の「寿会」だけになったとは誇って良いのやら、なん何とも気持ちは複雑である。