連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=46回

ニッケイ新聞 2013年4月4日

 コンデの坂はプラッサ・リベルダーデ(リベルダーデ広場)まで続く。この広場を左折するとガルボン・ブエノ街で日系人、韓国人、中国人が構成する東洋人街の中心地にあたる。児玉はここにある明石屋に立ち寄った。  経営者は戦後移民で、ブラジルのお土産や宝石を扱う店だった。児玉は絵葉書を適当に五、六枚ほど引き抜いた。 「どうですか、もうサンパウロの生活には慣れましたか」経営者の尾西が声をかけてきた。 「ええ、なんとか」  児玉は絵葉書代を店員に払うと二階に上がった。明石屋の二階は応接室で、宝石のケースが並んでいた。児玉は夕方明石屋に立ち寄り、その日、取材したニュース原稿のコンテをここの応接室で練ってから、帰社することが度々あった。 「ちょっと応接室を貸して下さい」 「ええ、どうぞ」  ソファに腰掛けると、二世の女性店員がコーヒーを運んで来てくれた。  セ大寺院やサンパウロの高層ビル群を上空から写した絵葉書を無造作にテーブルに並べた。児玉の視線はその絵葉書に注がれていたが、折原の父親のことが頭から離れなかった。明石屋に来たのも、彼に手紙を書きたくなったからだ。しかし、いったい何を書けばいいのだろうか。  熱いコーヒーを飲みながら言葉を探すが適当な言葉は見つからなかった。結局近況を知らせ、折原の親戚に会ったことだけを書くしかなかった。たった数行の文面にしかならなかった。余白はまだ十分にあった。  真っ白なスペースに何か、書き込むことはないか考えていると、説明不足の原稿をデスクから突き返されたような気持ちになってきた。児玉は意を決したように「青春の門を越える作品を期待している」とそのスペースに書き込んだ。  店員に切手代を渡して投函するように頼み、児玉は明石屋を出た。 帰化  金子幸代は三人兄姉妹の末っ子として横浜で生まれた。両親は日雇いの仕事をしながら子供を育てた。兄姉ともに成績は優秀で県内の進学校にトップクラスで入学を果たしている。一家の収入は不安定な日雇い仕事しかなく、その辺りの事情は子供たちも理解していて高校の授業料は奨学金で賄われていた。三人が学んだ中学校では「金三兄姉妹」としてそのズバ抜けた成績は伝説になりつつあった。  父親の金寿吉は朝鮮半島南部慶尚南道の港町釜山、母親の朴仁貞も慶尚南道馬山の出身だった。二人がどのような経緯で日本にいつごろ来たのか、どこで出会い、結婚したのか、幸代は詳しく聞いたことはなかった。そんなことを話せるほど余裕のある結婚生活でもなかったのだろう。育ち盛りの子供を抱え、日雇い仕事で得た収入だけでは一家が食べていくだけで精一杯だった。  少しでも余裕ができればそれは子供たちの教育費に回された。子供たちも両親の期待に応え、兄の容福は国立大学の医学部に、姉の文子は県立高校にトップの成績で合格している。幸代も兄や姉がそうだったようにミカン箱に新聞紙をはったものを机にして、天井から吊した六〇ワットの裸電球の下で勉強した。  一家の暮し向きが大きく変わったのは、幸代が小学校五年生の時だった。父親が北朝鮮に帰国しようと言い出したのだ。しかし、故郷が韓国だということもあって母親は帰国には猛反対だった。それに長男は医学部に進学し、数年後の国家試験にパスすれば医師としての道が開かれる。今ここで帰国してはなんのために頑張ってきたのか。母親はせめて医師免許を取得するまでは、日本で暮らしたいと主張した。父親は母の説得に耳を貸そうとはしなかった。 「この国で医師免許をとって何になる。朝鮮人の医者のところへ来る患者がいるとでも思っているのか」 著者への意見、感想はこちら(takamada@mbd.nifty.com)まで。