SC州の集団地を訪ねて=第39回県連ふるさと巡り=第7回=サンジョアキン=「石は動かせるが気候は」=コチア全盛期の逸話満載

ニッケイ新聞 2013年4月11日

平上さん

平上さん

 「『石は人間が動かせるが、気候は動かせない』って後沢博士がよく言っていました」。サンジョアキンをリンゴ団地の候補地として選んだ後沢憲志博士の有名な言葉を繰り返すのは、74年入植の草分け平上文雄さん(63、和歌山)だ。
 「後沢博士は日本から白樺を持ってきて、これが白くなれば良いリンゴができると言った。そして本当に白くなったんです」と懐かしむ。「でも、僕は和歌山生まれだから、それまで白樺自体見たことなかった」と笑う。リンゴには年間で7度以下が700時間も必要なのだという。「州内でもここだけ」と平上さんは言う。
 1959年に渡伯し、当初はパラナ州ウライに入ったが、数年後にサンパウロ州マイリンキに初めて自分の土地を買った。当初、コチア産組が始めていたバイーア州ペトロリーナの欧州向け果実生産地を視察に行った兄は、「あそこは子供の教育に向いてない」との感想を漏らした。その直ぐあとにサンジョアキンの話が出てきて、兄から「リンゴ作りに行ったらどうか」と薦められ、平上さんは決心した。
 最も新しい集団地の一つだけに、サンゴタルドしかり、ペトロリーナしかり、ブラジル農業の拡張期の名残があちこちにある。まさに70、80年代のコチア産組全盛期の勢いが感じられる逸話が満載の場所だ。
 リンゴの苗木は植えてから4、5年目以降でないと収穫できない。その間、無収入でも持ちこたえられるような、例えば兄弟が他で収益を上げて支えられるような人を組合は選んだ。それでも「最初の16家族中、3家族は抜けた」と振り返る。
 「最初は誰もリンゴ作り知っている人がいなかった。後沢博士だけが頼り。リンゴの収穫ができるまで、えんどう豆やバタタの種芋を作ったり、手探りで生き延びた」という。「新しい土地だったから凄い種芋ができてお金になった。最初は種芋サマサマだったよ」。
 平上さんは1989年、コチア産組が80年代に経営不振にあえぎ、遅々として再建が進まない様子に見切りをつけて独立し、平上兄弟商会を設立した。現在では250ヘクタールもリンゴ栽培し、「だいだいサンジョ組合の5分の1の規模。収穫には500人を雇っている」という。
 「かつてはフライブルゴのリンゴ生産の方が多かったが、今ではこっちの方が多いぐらい。それでもリオ・グランデ・ド・スルはまだ多い」と表情を引き締めた。
 相方としてサンパウロ市で販売担当をする兄は、ゴルフ場ヴィスタ・ベルデ(カステロ・ブランコ街道51キロ)も経営している。
 「入植当初のここは、サンパウロではあった電話も電気も水道もない状態。ないないズクシの開拓地なのに妻は不平も言わず来てくれ、本当によくやってくれた」としみじみ語り、「もちろん、今だから言うけどね!」と笑った。
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 交流会で会った同地組合の百合勝一さん(69、愛媛)は、「ディズニーが『うちのマークを使ってくれ』と組合に売り込みに来たんですよ」と意外な話を披露する。7、8年前のことだ。百合さんはリンゴ団地開設の翌75年に入植した古参だ。
 子供向けの小粒リンゴを9個ほどで一パックにした商品は、大手スーパーなどで「モニカ」「セニーニャ」など各種ブランド名で売り出されている競争の激しい商品分野だ。元々は「Sandito」ブランドだったが、ディズニーの絵柄を袋に採用していから、「どんどん売れるようになった。『モニカ』とかは、最初はボクらを競争相手とも思っていなかったようだが、今じゃ戦々恐々としていると聞くよ」と余裕の笑みを浮かべた。(つづき、深沢正雪記者)