デカセギ三都物語=なぜ日本に残ったのか=第5回=岐阜編=「大事なことは日本で学んだ」=子供のため帰国は選ばず

ニッケイ新聞 2013年4月17日

「日本で自分という人間が形成された」と語る伊禮門アンドレさん

「日本で自分という人間が形成された」と語る伊禮門アンドレさん

 その後、後藤佳美さんは種明かしのようにこう言った。「ソニー問題で大手メディアが取材に来たけど、最初からストーリーを作って取材していたという印象がある。事実とは違うように書かれていたのがね…」。
 町全体が大変なことになっている、路頭に迷う外国人…。センセーショナルな見出しを付ければ、それだけ注目が集まる。詳しくは聞けなかったが、「揺れる美濃加茂」報道が一部事実ではないと2人が考えるのなら、地域の外国人住民は冷静に、金融危機の教訓を生かして自らの進むべき方向を模索しているということだろう。
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 事務所で話を聞いているうちに、向かいの部屋の日本語教室が終わったようで、外国人十数人がゾロゾロと出てきた。
 平日の昼間から授業に通うのだから、失業中の地元在住者に違いないと直感した。確認すると、やはり求職中の外国人を対象とした無料の「日系人のための就労準備研修」、厚生労働省が財団法人日本国際協力センター(JICE)に委託している事業だという。
 その教室の生徒、沖縄系三世の伊禮門(いれいじょ)アンドレさん(38)に取材すると、「日本に来たのは、経済的に苦しい思いをしていた両親を助けたかったから」と強調した。サンパウロ州サントス生まれで、97年に大学を辞めて19歳で兄弟と日本へ渡った。日本はバブル崩壊した後で、外国人賃金は下がり始めていたが、まだ在日ブラジル人人口の増加期だった。
 愛知県刈谷市に住み、いったん帰国して三世の女性と結婚。99年に再び訪日した。勤め先の工場にはブラジル人が多く、通訳がいたため日本語を覚える必要がなく、そのまま10年以上が過ぎた。同じように過ごした多くのデカセギは、金融危機後に解雇された。
 伊禮門さんの場合、なんとか危機後の大量解雇からは逃れたが、12年8月から無職になった。6歳と2歳の子供がおり、川辺町の公営住宅に住む。ガラス繊維工場で働いていた。それ以来、失業保険で生活しているというが、「でも借金はないよ」と念を押すように付け加えた。
 危機前後の違いを尋ねると「給料が下がった」と即答した。周囲で職を失ったブラジル人については「多くが帰った。ブラジルの家族に援助を頼んでしのいだりして残った人もいる」と説明する。ブラジルから仕送りを受けて日本で生活するとは——もう文字通りの〃デカセギ〃ではない。むしろ真逆といえる。
 地元の保育園に通う長男はクラスで唯一の外国人だが、「来年度から小学校へ友達と一緒に行くのを楽しみにしている」と顔をほころばせる。
 「日本で生まれ育っている子供のことを考えると、帰伯するわけにいかない」と言い切る一方、家では彼らにポ語を教えることに余念がない。誇りある母国の文化を理解し、母国語も話せるようになってほしいと願っているからだ。
 日本社会の良い点を尋ねると、まず「教育」、続けて「オルガニザソン(規律)」、「治安」との言葉が続いた。多くの日系人が長所として挙げる点だ。
 「19歳で日本に来たから、大人になってから学ぶべきことはほとんどここで学んだ」と断言する。さらに「人生の半分はもう日本。ここで自分という人間が形成された気がする」と自己認識している。
 ということは、帰伯しなかったのは子供のためだけではない。自らも、知らず知らずのうちに日本という国に適応していたから残る決断をしたということだ。
 そこで、ふと疑問が残った。「日本に適応した」と言い、日本語教室に通っているにも関わらず、なぜ彼は日本語を話さないのだろうか。(つづく、田中詩穂記者)