コラム 樹海

ニッケイ新聞 2013年4月27日

 手許の歴史年表を開き昭和26年9月8日を見ると、吉田茂首相が講和条約に署名し、池田勇人や一万田尚登両全権らが立ち並ぶ大きな写真が掲載されている。あのサンフランシスコ講和条約の調印式であり、この条約の発効によって7年近い連合国の占領から開放され夢にまで描いた独立を成し遂げた記念すべき日である。この講和条約を巡っては国内でも大論争があり、宰相吉田茂は全面講和を主張する東大総長の南原繁を「曲学阿世の徒」と批判する一幕もあった▼あの当時の国際情勢は朝鮮戦争が勃発しアメリカと旧ソ連、中国の対立が先鋭化し真に険悪な空気が世を覆い、何時—第三次大戦の幕が開くかの議論までが論壇を賑わせもした。この旧ソ連は講和条約には署名せず「新しい戦争のための条約」と非難するなど話題は尽きることがなく続き、日本の与野党の対立も今では想像もできないような「暴力沙汰」も多かった▼この講和条約成立には、米国務省のダレス顧問の尽力があったし、後に首相になる池田勇人氏が訪米し黒子になって活躍した裏話もある。側近で秘書の宮沢喜一氏も「あの頃はおカネがなくて池田さんも安宿に泊まり米政府側と交渉したんですよ」と秘話を語っているし、池田氏が陰の功労者でもあったのはもっと人口に膾炙されてもいい▼この「主権回復」を祝い、条約が発効した昭和27年4月28日を記念し政府主催の式典が憲政会館で開かれる。天皇もご臨席になるし、全国の知事も招かれているが、沖縄は欠席し副知事が代理と複雑な動きもあるけれども、ここは「独立万歳」と祝福の乾杯を上げたい。(遯)