第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(3)

ニッケイ新聞 2013年5月16日

 熱風は、東京から送信されるニュースを掲載する邦字新聞によって──奥地も含めて──邦人社会の隅々に伝えられた。
 本や雑誌も、日本から大量に輸入された。その中には子供向けのものもあった。軍国調華やかな記事や挿絵が満載されていた。
 1937、8年には、日本放送協会の南米向け短波放送が始まった。その受信機からは勇ましい軍歌が流れた。受信機の数は少なかったが、日本人相手の商店が、店頭にラジオを置いて、客寄せに使った。ブラジルの奥地、小さな町の中心街を歩いていると、突如、勇ましい日本の軍歌が流れてくる……という具合だった。
 この日本からの放送は「東京ラジオ」と呼ばれた。
 試みに日支事変が始まって以降の邦字新聞を捲ってみると、一面は連日の様に、前線の動きを伝えており、中面を開くと──邦人社会で行われた祖国向けの──国防献金や軍用機献納のための募金の記事が目立つ。
 皇軍兵士への慰問袋も、各地の日本人会から送られていた。
 これは、邦人社会の「我々も祖国のため何か役に立ちたい」「ジッとしていられない」という気分の現れであった。
 対ブラジル移植民事業の国策化もあって、邦人たちは祖国との結びつきを自覚、そういう意識を持つ様になっていた。日本の日本人と同様に、天子様への崇敬心を信仰の域まで昇華させ、祖国は神国であり、戦えば必ず勝つ……と信じるようになっていた。
 その、旭日が天に昇って行く様な勢いの祖国へ、錦衣帰郷することが、邦人の大部分を占める移民たちの目的であり夢であった。果さねばならない──ふるさとの人々との──約束であった。
 彼らは〃移民〃ということになっていたが、実は出稼ぎのつもりでおり、帰郷を予定していた。従って、子供の教育も「日本へ帰ること」を前提に考えていた。
 移民は、渡航後、最初は非日系のファゼンダのカフェー園でコロノ(雇用農)として働いた。その段階では、子供の教育までは手が廻らない……というのが実情だった。が、やがて自営農となり、サンパウロ州からパラナ、その他の州に無数の入植地を作った。それができると、日本人会を組織した。その日本人会の主たる事業は、日本語によって日本式に子供を教育する小学校の運営であった。
 小学校と言っても、初期の頃は、寺子屋式の質素なものであった。が、次第に形や内容を整えて行った。子供たちに、できるだけ日本と同じ教科で授業を行った。前出の「移住地」の場合は、施設、教育内容とも、日本国内と変わらぬ水準の学校をつくった。
 これらは〃日本学校〃と呼ばれた。(日本人を育てるための学校であり、戦後の日本語を普及するための日本語学校とは、性格が異なる)
 近くに──ブラジルの学制に基づく──ポルトガル語の学校があれば、そちらにも通わせた。無いところも多く、その場合、日本人会が経費を出して建設することもあった。子供は、午前と午後に分けて両方へ通った。
 ブラジル学校の教員は非日系人であり、当然、教育はブラジル学校を主とすべきであると思っていた。が、親の方は、いずれ家族で日本へ帰るつもりであったから、ブラジル学校の方は、当分この国で生活する便宜上、利用するという程度の意識であった。利用というのは、子供にポルトガル語を覚えさせ、ポ語の不自由な親を、仕事や生活面で助けさせる、という意味である。
 子供がブラジル生まれであろうと、同じであった。親は子供が生まれると、サンパウロの日本総領事館や地方の主要都市にある日本領事館に届け出をし国籍をとった。
 ちなみに、当時、日本学校で学んだ生徒たちは、現在は老齢になっているが、驚くほど正確な日本語を話し書く人が多い。(つづく)