第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(4)

ニッケイ新聞 2013年5月17日

 一方で、日本学校にもブラジル学校にも行けぬ子供もいた。そうした場合、親や家族が、日本語の読み書きを教えるのが普通であった。(中には、子供の出生を届け出ず、日本語も教えぬ親もいた。が、これは例外ケースであった)
 日本学校には、1927(昭2)年頃から、サンパウロ日本総領事館が梃入(てこい)れを始め、そのための組織もつくった。組織名は二転三転したが、1936(昭11)年、ブラジル日本人文教普及会となった。普通、文教普及会と呼ばれた。
 この普及会では(総領事館によって)日本から招かれた指導者たちが、日本学校と連絡をとって、日本式教育の徹底を図った。日本と同じ教科で生徒を指導した。御真影を拝し、教育勅語を奉読した。
 上級学校に進む成績優秀な学徒のためには、日本への留学制度を設けた。
 教員の講習会も開いた。開会式で祖国を遥拝、皇室の繁栄と皇軍将兵の武運長久を祈り、君が代を合唱、教育勅語を奉読した。翌日からの講習会は、早朝、太鼓の音で起床、鉢巻を締めて運動場で駆け足、国民体操の後、清掃、洗面、その後また太鼓の音で講堂に集合、祖国遥拝、静座、朗詠朗誦、精神講話の後、やっと講習……という具合であった。これも、日本の教員養成方法と変わらなかった。
 総領事館側は、日本学校の生徒たちに、祖国の海外発展の一端を担わせようとしていた。
 以上の様な環境下で育った子供たちは、何の疑いもなく、日本人意識を持って育った。ブラジル生まれでも、あるいは幼年期に渡航し日本の記憶が無いか薄い者でも、強い皇室崇拝心と日本に対する愛国心を抱いていた。(ブラジル人意識を持って育つ者もいたが、率は極めて少なかった)
 ブラジル政府は、この国で生れた者には国籍を与えていた。だからブラジル生まれの子供たちは二重国籍になっていた。が、彼らの多くは自分を日本人と思い込んでいた。男子の場合は、兵隊さんに憧れ、帰国して従軍することに焦がれる者も多かった。
 子供たちの心にも、日本からナショナリズムの熱風が、吹き込んでいたのである。
 ちなみに、やがて彼らが青年期に入る時、邦人社会は戦後の騒乱期を迎える。その騒乱の中に身を投ずる若者が少なからず出た。
 ただ、大人だけでなく子供たちまでが、そうなったのは、この国の邦人社会特有の現象ではない。世界的に流行していたナショナリズムの影響であり、どこの国でも似たようなものであった。

〃襲撃者たち〃の少年時代

 当時、パウリスタ延長線の町に、二人の少年が居た。(なお、この項の地名は、サンパウロ市を除き、すべてパウリスタ延長線の沿線のそれである)
 一人は山下博美といい、筆者は2001年に知り合った。その時点では、サンパウロ市内で年金生活をしており、年令は70代中頃になっていた。穏やかで、澄んだ、しかし芯のある老人だった。
 1925(大14)年、三重県に生まれ、3歳で両親に連れられて海を渡った。日本のことは記憶にはなかったが、日本人として育てられ、当人も何の疑いもなく自分を日本人と思っていた。
 少年期、ポンペイアで、日本学校とブラジル学校に通った。時期的には丁度、1931年、昭和6年の満州事変以降に当る。(つづく)