ブラジル文学に登場する日系人像を探る 7…東洋街生まれの「フジエ」…中田 みちよ=第1回=意思表示する戦後日系女性

ニッケイ新聞 2013年5月21日

 「フジエ」では、日系人を親友にもったガイジンの目を通して、戦後の日系社会を垣間見ることができます。柔道、邦画館、そして写真館。これまでものすごく無愛想か、でなければニコニコ笑ってばかりいた日系娘が、この小説では意思表示をするようになり、それもガイジンの青年を誘惑するという形で登場。かつての健康で清純な日系ムスメも大いに進化(?)します。
 背景には第2次世界大戦が終わり、世の顰蹙をかった勝ち負け問題がブラジル社会の耳目を集め、怪我の功名的に日本人が知られるようになったという構造があると私は読みます。
 サンパウロの下町生まれのジョアン・アントニオ・フェレイラ・フィーリョ(Joao Antonio Ferreira Filho、1937—1996年)は1963年に処女作『マラゲッタ、ペルー、バカナッソ』(Malagueta, Perus e Bacanaco=唐辛子・七面鳥・素晴らしき哉)を発表し、これがジャブチ賞(新人賞・最優良書のダブル受賞)、ファビオ・プラド賞、サンパウロ市賞を総なめ。たちまち売れっ子になりました。短編「フジエ」はそのなかに収められている一編です。
 「フジエ」から私は藤の花を連想したんですが…ジョアン・アントニオはフジエを富士山にかけているというこのずれ、残るのは苦笑ばかり。日本連想のツールが違うんですねえ。ガイジンはやはりサクラ・ゲイシャ・フジヤマでした(ふーん、フジエはフジヤマなのか…女性名詞がヤマの男性名詞とケンカするような気がしますけどね)。
 「ペニャに住んでいたまだくちばしの黄色い少年だったころ、おやじの友人がこう云ってけしかけたことがある。『まるで闘牛じゃないか。わしだったら、アントニオよ、お前のむすこに格闘技をやらせるね』。おやじのアントニオは格闘技が大好きだった。俺は柔道着を買ってもらい、散髪に連れて行かれた。そのころは長髪がはやっていて、ライオンのような長髪が俺の誇りだった。それから道場に連れて行かれた。畳をうつ地響き。俺はまるでぼろきれのようにたたみに投げられた。身体がボキボキ音を立てる。骨が折れるじゃないか。冗談じゃない。なんだ、なんだ柔道なんか、くそくらえだ。やめたやめた、と俺は叫んだ。すると、『やめるもんか。やめさせるもんか。少し、鍛えてやる』とどなり返された」
 60〜70年代というのはサンパウロの街角にはずいぶん「JUDO」の看板が見られたものでした。それから「ONO」。これは私の独身時代の苗字が小野なので、忘れようがないんですけどね。最近では「JUDOCA」なども外来語として辞書に載っています。
 ブラジルに本格的に柔道が普及されるようになったのが1924年で、これは講道館三段の大河内辰夫の功績。これ以前に、つまり前史として三浦鑿(さく)、馬見塚竹蔵、前田光世(コンデコマ)などがブラジルの公機関で柔道を伝授し、先鞭をつけています。因みにベレンでコンデコマの手ほどきを受けたのがカルロス・グレーシーで、これがグレーシー柔術を興した人です。小柄なグレーシーはそのハンディを生かして、小回りの利くグレーシー柔術を生み出したのです。一族はそればかりでなく、起業の才があり、一代財閥となりましたね。
 ブラジル柔剣道連盟ができ、柔道が広くブラジル人の間にも普及するようになります。スポーツとしての娯楽性に加えて護身術としても注目され、その後の治安の悪化に伴って市民権も拡大した、一言でいえばこんなところでしょうか。(つづく)