連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第79回

ニッケイ新聞 2013年5月22日

「二、三日姿が見えないと、他の移民が訪ねていくと、両親はすでに死んでいて、遺体に湧いたウジで子供が遊んでいた。遺体は腐乱が激しくどうすることもできず、子供を引きはなして、家ごと燃やしたケースもあったくらいだ」
「野村さんも日本人移住地に入られたのですか」
「わしらはコーヒー栽培にすぐに見切りをつけて、米作りを始めたのさ」
 サンパウロ州とミナスジェライス州の境をリオ(河)・グランデが流れている。グァイーラからは十数キロのところにリオ・グランデは流れ、その流域に日本人は米作りに入植した。一年契約の借地で、借地料は収穫の四割を地主に納めれば済んだ。小作制度に慣れていた移民には、監視されながら働くコーヒー農場より抵抗感が少なかった。
「米作りに入った移民もマラリアに倒れた」
 蛇行して流れるリオ・グランデの川幅は数キロにも及び、上流から運ばれてきた肥沃な土が堆積してできた小島が点在する。そこで米を作った。収穫を目前に控えて移民は次々にマラリアに倒れた。
「小さな島にどれくらいの移民が埋葬されているか、わからないほどだ」
 コーヒーは苗から育てて収穫するまでに五、六年はかかる。しかし、米作りは一年で収支が明確になる。借地なので収穫量が少なければ新たな土地を求めて移動もしやすい。
「米で成功してやろうと思って、リオ・グランデ流域を転々としたが、結局故郷に錦を飾ることはできなかった」
 そうしているうちに二世が次々と誕生していった。サンパウロ州各地に作られた植民地には、日本語学校が併設された。ブラジルの国籍法は出生地主義を採用しているために、ブラジルで生まれた子供は親の国籍如何にかかわらずブラジル国籍を取得する。日本国籍を子供に取得させるためには、サンパウロの領事館に「国籍留保届」を提出しなければならなかった。
「移民は永住するつもりなど最初からなく、出稼ぎで一旗揚げるのが目的。〈国籍留保届〉を提出する一方で、教育には誰もが心を悩ませた」
 日本人移民が初めてブラジルの土を踏んだ頃は、子弟の教育どころではなかった。しかし、植民地が建設されると、移民は開拓の合間に共同作業で学校を造り上げた。泥壁に茅葺きの屋根の粗末な掘立て小屋を建てて、子供たちにそこで日本語や日本的なしつけを学ばせた。
 学校が建設されても、教師資格を持つ移民はいなかった。尋常高等小学校や中学を卒業したものが父兄に依頼されて教壇に立っていた。
「いずれ日本に帰ると思っていたからブラジルの学校へなど通わせようともしなかった」
 野村家の二世、つまりマリーナの父親は日本語もポルトガル語も話せるが、読み書きの方はどちらもおぼつかない。
「リオ・グランデ流域に入った移民は、一年ごとに移動を活発に繰り返したために、近くに日本語学校がある時もあれば、ない時もあった」
 日本に帰った時、子供達が日本語を話せなくなっていたのでは、大金を掴んでも意味がなくなる。
「ブラジルに移住しようが我々には日本人の血が通っている。その子孫も未来永劫、立派な大和民族で天皇陛下の赤子に育てあげなければと考えたんだ」
 移民は二世たちにも教育勅語を教えた。
 朴美子と別れてから一年近くが経過していた。再び「民族の血」という言葉を聞いた。
「ガイジンとの結婚なんて以前は絶対に許されなかった」
 日本人移民は、ブラジルで外国人と呼ばれるのは自分たちであるにもかかわらずブラジル人を「ガイジン」、入植地を植民地と呼んでいた。日本人の入植地は日本そのもので、移民はブラジルを朝鮮半島や台湾のように漠然と考えていたようだ。
「ブラジル人との結婚は何故認められなかったのでしょうか」児玉が聞いた。

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