ブラジル文学に登場する日系人像を探る 7…東洋街生まれの「フジエ」…中田 みちよ=第5回=ブラジル人描く妖艶な日系女性

ニッケイ新聞 2013年5月25日

 「しかし、俺の悪魔は彼女の腕や臀部にぴったり張り付く。うまくいえない。つややかな髪になげた視線を全身に這わせる。欲望する。夢想する。フジエの瞳、フジエの唇、フジエの全身を夢見る。その名を何度口にして呼んだことだろう。その名を何回、何十回、何千回紙に書き散らしたことだろう。何度も丸めて捨てては新しく書いたことだろう。切れ長の目が、俺を欲し、俺に乞う。ときどき、誰もいないところで俺の手を彼女の熱い胸にあてる…。人生の最初の動揺だった。しかし、現実には私は何も言わず、写真を抱きしめては子どものように泣くだけだった」
 そしてとうとう不倫にいたります。面白いんですが、これが非日系のブラジル人女性の不倫だと何の痛痒も感じないのに、フジエにはちょっぴり裏切られたように感じますね。日系ということで肉親の娘が重なり、けしからんと、という気持ちになるんでしょうか。
 「私は彼女を抱きしめた。『悪い人…』雨が屋根ではげしく踊っている。室内ではハエが何匹かうるさく飛んでいる。卑劣な行動をしていることを私は知っていた。雨が降る。土砂降りだ。雨は神が降らせる。神よ、私は悪くないのだ。悪いのは大通りであり、蒸し暑い夜であり、雨である…。自分を納得させることができたら何でもよかった。『悪くなんかない…』『優しくしたいだけだ』外はどしゃぶり。うるさく飛ぶハエが愛の伴奏曲。部屋の中では愛がはじまる。」
 うーん。こうして親友の妻と寝ちゃって…。映画の中の可憐な日本女性は、妖婦になっちゃうわけねえ…。従来のただニコニコするばかりのムスメも画一的ですが、これはこれでステレオタイプの女性像。しかし、学生運動に身を投じたりするアナーキストたちが登場してくるのもこの頃で、日系人の選択肢がずいぶん多彩になりました。さて、夫の親友と不倫する日系人…。進歩というべきか、退廃というべきか…唯一確かなのはブラジルという国がこれらをみんな飲み込んで、日ごとに肥えていくということです。
 不倫といえば、95年ごろ、研修で日本に滞在したとき、同期たちが驚いていましたねえ。首都圏に在住している大学の元仲間で、不倫していない女性は皆無だったと。国際化ということばがありますが…なんだか嫌味ですねえ。
 ジョアン・アントニオは大変、痛ましい最期を迎えました。67年に結婚し、子どももいたのですがまもなく離婚。職も捨て、車も売り払ってゴムぞうりにバミューダ。作品の主人公のようなマージナルな生活に入ったのです。
 このあたりが異常で、何かあるはずなんですが、これについて言及する本はなく、想像をたくましくすれば、ホワイトカラーの世界に嫌悪感をもった…リオにしろサンパウロにしろ描写するのは風光明媚の陰に存在する庶民の世界…麻薬も殺人も日常茶飯事…的外れではないかもしれまん。15冊の本を出版しているのですが、出版記念サイン会や文学関係の催しはすべて拒絶。このあたりから前記の結論を導き出したんですが…。ずっと、一人暮らしをつづけ、59歳で死にますが、その死が判明するのは15日も経ってから。コパカバーナは暑いのに…腐乱が進んだろうなあと胸が痛みました。(終わり)